空想的平和主義者に告ぐ

本日は、午前中からカミサンの実家にお世話になっているため、ネットから離れております。したがって、時事ネタから少し離れたところについて。
先週末に、NHK憲法改正に関する討論番組をやっていたそうですね。実は全く見ていませんが、土井たか子とか大江健三郎などの差別思想保持者まで出ていたそうで(彼らは自衛官に対する差別発言を公的に行い、撤回もしていない)。しかし、憲法9条護持が実は最も非「護憲」的発想であることを彼らは知らないようです。
今、憲法9条のある日本国憲法は、何よりも大事だ、というのが彼らの主張です。では、その日本国憲法が停止される状況は、一体どういう状況でしょうか。一つは彼らが危惧する、憲法改正です。しかし、憲法改正はまだ民主的な手法によるので、恐らく人死は出ますまい。しかし、もう一つ想定される憲法が停止される状況は、確実に人死にが出ます。
それは、他国の軍事的占領下に措かれた場合です。
1945年にGHQによる統治が行われたとき、日本国内の最高法規は何だったのか。それは当たり前のことですが、大日本帝国憲法じゃありません。大日本帝国憲法は停止されていたのです。当然、憲法を前提にしてある諸法はすべて停止です。占領府の定める法規に則って日本は統治されるわけです。それを日本は60年前に身を持って体験しているんです。憲法が停止されるのは、外国からの占領統治を受ける状況ですから、そういう状況に対処できるようにしておかなければならないはずです。
ところが、憲法9条を見ると戦力不保持と書いてあります。この9条を守っている限り、憲法停止という状況を招きかねない。
しかし、今まで日本は戦後60年間、他国から占領統治はされていません。何故か。理屈をこねて、憲法違反を「合法化」しているわけです。自衛隊という軍事力を保持し、アメリカと軍事同盟を結ぶことによって、昔ならソ連、今なら中国という軍事的脅威から日本を防衛してきたのですね。だから、憲法9条によって日本が守られてきたのではないのは、普通に考えればわかることですね。
結局、日本国憲法を守ろうと思ったら、憲法9条を変えるしかないのです。平和主義者は、日本は憲法9条を守って死ね、とか言いますけど、それもやはり大いにおかしい。憲法9条を守って国家が滅びた、民族が滅ぼされた、なんてことになったら、日本人は歴史上の笑い者になることは必至です。まあ、他の民族に対して「自分たちのことは自分たちで守らなければならない」という教訓を残すことくらいはできるかも知れませんが。また、憲法は国民の生命・財産を守るための国からの宣誓書(国と国民との契約書)ですから、それを議論するときに「憲法を守って死ね」というのは、そもそも憲法論議として成立していないんです。だから、空想的平和主義者は、そもそも憲法を語る資格すらない、と私は考えます。
ちなみに改憲論者の中にもある「戦争放棄」というのも空論でしかない。自衛のための戦いは戦争じゃないのか、ということです。例えば、2005年に日本が中国と戦争をしたとしましょうか。そのとき、日本は自衛のためだったからということで、歴史の教科書に「05年 平成事変」とでも書くつもりでしょうか。第三者から見たら、どう見たって「戦争」ですよ。自国のためだろうが、侵略だろうが、武力的紛争はすべて「戦争」なんです。だから、「戦争放棄」を謳うことも空想的な観念論か、ただ単に妥協の産物なんです。
戦争を忌み嫌って、その言葉を使いたくない、というのは、いかにも日本人的な観念的な発想で、そういう日本人的な土俗的観念を見透かして妥協案とするのは、もういい加減やめたらどうかと思います。観念を抜いて、平たく現実を見ること。それが憲法改正議論の第一歩だと私は思います。