おお〜、田村麻呂かよ!

初代・征夷大将軍であった坂上田村麻呂。学校で習う歴史でも有名な人物なのですが、その実態が微妙によくわからないという点で、私は非常に惹きつけられるのですね。
その田村麻呂に関するこんな記事。
坂上田村麻呂の邸宅か 渡来系の遺構みつかる」
http://www.sankei.co.jp/news/060719/sha023.htm

征夷大将軍として平安時代初めに東北地方平定に力を尽くした坂上田村麻呂(さかのうえの)(758〜811年)の出身地とされる奈良県高取町の観覚寺遺跡で、奈良時代後半から平安時代初め(8世紀後半〜9世紀)の建物と塀の跡が、町教委の調査で見つかった。渡来系の建物の特徴をよく残し、坂上氏も渡来系氏族だったことや、同遺跡一帯は坂上氏の本拠地で田村麻呂の邸宅があったとの伝承もあることから、町教委は「田村麻呂につながる屋敷跡かもしれない」としている。
町教委が6月に行った同遺跡の調査で約50平方メートルを発掘したところ、直径約20センチの柱を20〜30センチごとにびっしり立て並べた「大壁(おおかべ)」と呼ばれる特異な構造の建物跡(南北4メートル以上、東西2メートル以上)2棟と、塀跡(南北7メートル以上)2列を検出した。
「大壁」は、密集して立てられた数十本もの柱をそのまま土で覆って強固な壁にしたもので、日本古来の竪穴式住居や掘っ立て柱建物とは全く異なる構造。同遺跡では、古墳時代後期(6世紀)から飛鳥時代(7世紀)にかけての大壁建物跡が発掘されており、いずれも朝鮮半島からの渡来系氏族、東漢(やまとのあや)氏が建てたとされている。
東漢氏は、飛鳥時代に政府の中枢に入り込み、奈良時代にはその一族の坂上氏が田村麻呂を輩出するなど、最も権力をもっていたとされる。同遺跡のすぐ近くには、田村麻呂が領地を寄進したと伝えられる子嶋寺があり、田村麻呂像(鎌倉時代)も同寺に安置されている。
今回の調査によって、同遺跡では初めて、田村麻呂の時代と一致する大壁建物跡が確認され、これらの伝承と結びつく可能性が浮上。町教委は、田村麻呂のふるさとにかかわる興味深い資料になるとしている。

最近は何かとウリナラ起源の話がややこしいのですが、古代から中世にかけて、朝鮮半島と日本列島との間は、もっとおおらかに文化的にも人的にも交流があったと、私は考えます。田村麻呂は渡来系(帰化系)ですが、当時の桓武帝に重く用いられた(桓武帝の母が渡来系という話もあります)。この辺りが、いかにも本来は移民の国・日本だと私は思います。
で、この田村麻呂には実は非常に大きな功績があります。今、日本列島では北は北海道から南は沖縄まで、稲作が行われている。北海道は明治以降の経営ですから省くとしても、東北地方でも稲作が行われるようになったのは、実は田村麻呂の功績だと思うのですね。
もともと熱帯性の植物である稲にとって、東北地方は稲作の不適地です。しかし、東北地方の方がむしろ大規模に稲作を、古くからやっている。
日本における「夷」という野蛮人の定義は、シナ大陸における定義と全然違うんですね。シナ大陸では「儒教に感化されない連中」という意味ですが、日本では「米を作って食べない人」という意味なんです。
田村麻呂の遠征は、後世の我々が想像する「軍隊」の遠征ではないんじゃないか。実は、「ご飯食推進委員会」がその実態だったのではないかと考えています。
行った先では戦いになるかも知れないから、とりあえず武器は持って行く。でも戦うことが目的なのではなくて、まず稲作の適地みたいな場所を探して、そこを柵で囲う(これがいわゆる城)。で、その柵の中で田んぼを作り、稲作をする。蝦夷たちが最初は訝しげに眺めてるんだろうけど、稲作連中がいいものを食っているのが羨ましくなってくる。そこで荒くれ者は略奪に走る。これが戦争になったりするんですが、概ねの蝦夷は「オレたちにも教えてくれ」と言ってくる。これが実は「平定」なんですね。もちろん、アルテイのような大規模な戦争になった部族との争いもあったでしょうけど、基本的には稲作を推進するのが目的だったわけですね。で、ある地域がきちんと稲作地帯になると、今度はさらに北に東に移動して、また同じことをする。
こうして見ると、田村麻呂は軍事的指導者として有能だっただけでなく、農業土木者としても優秀だったのかも知れない、とかそういう想像というか、妄想をしてしまいます。
つまり、田村麻呂は日本列島に「日本人」の定義を広めた人なんじゃないかなと。日本列島在住でコメを箸で食べる人。これが日本人の定義なんじゃないでしょうかね。日本人にとって如何にコメが大事かというと、今でも天皇陛下が田植えと稲刈りを毎年なさいますよね。日本にとって、コメというのは大事な食料であると同時に、宗教的な意味をも持つものなんじゃないかと思います。