真理や絶対の正義はない

なぜ、こんなことを書くかというと、普段、愛読させて頂いている、某S氏さんの「徒然日記 多事某論」(http://plaza.rakuten.co.jp/bosc1945/diaryall)を読んでいて、この某S氏さんと自称・数学教師である秀0430さんとのやり取りを拝見して考えたことです。まとめのページは、こちら(http://plaza.rakuten.co.jp/bosc1945/002004)。
私は「絶対の正義」というものを信じていません。民主主義というのは、この「絶対」を排除する姿勢だと私は考えています。誰かが正しい、と思う事柄には、その反対が正しいと思う人が存在するはずです。それが圧倒的に多数に支持されるもの(1+1=2のようなもの)もあれば「軍備は絶対悪である」という命題のように、賛否が分かれるものもあるわけです。この賛否分かれた状態を許容するのが民主主義であって、お互いが自分たちの主張の方が「現実的に有用」と言い合うシステムが民主主義であるはずです。普通の民主主義者なら「自分の主張は少なくとも今の現実には受け入れられていない」場合は、自分の主張を変えるか、あるいは維持するか、という選択をする。しかし、特に平和主義者の方々には、なぜか「現実的に有用」でないことを「絶対的に正しい」と主張する人がいる。自分たちの「絶対的な正しさ」「真理」が受け入れられないのは、現実がおかしい、と考えるのです。そして、こういう人たちが権力を握るとどうなるか。それは社会主義国家の歴史が証明していると思います。「真理」に適合しない現実を「矯正」します。この最終形態が「粛清」です。だから「絶対の正義」「真理」を振りかざす人を、私は警戒します。
妙な例えですが「1に1を加えると2である」という命題は正しいか、と問われます。私は正しいと思いますし、正しいと信じています。しかし、これは「絶対」ではない、とも思っている。つまり、回りくどい言い方をすると「1+1=2である、ということを反証するような事例はほとんどない。むしろ、1+1=2であると仮定することによってスムースに解釈できる事例が圧倒的に世の中の多数を占めている。ゆえに1+1=2であることを正しいと信じる」ということです。だから私は「真理」などは、言葉遊びの結果生まれたものであると思っているのです。ちなみに理科系の言葉では、証明不要の事柄を「公理」とよびます。真理ではない。証明不要というよりも、証明不可能な事柄と解釈してよいと思いますが、結局、「絶対の正義」や「真理」というものも「公理」の上に組み立てられているものです。公理自体「絶対」ではないのですから(証明できないと言うことは、それが絶対に正しいかどうかも証明できない)、その上に組み立てられたものが「絶対」だの「真」を名乗るのはおこがましいように思うのです。
私も理科系の研究者の端くれです。ある現象が起きれば、当然解釈の仕方が違うことが多くあります。学会で発表し、自分はこうだ、と思っても、会場にはそうじゃない、という人がいる。で、これは「絶対的に正しい」ものを追求しているのはなくて、できるだけ広範囲に説明の出来る話になっているか、矛盾なく説明できているか、という部分です。もちろん、一般的には理科系ではこの「より広範囲に矛盾なく」を「正しい」と言い換えてはいる。だから、私は学会で自説が否定されても、そんなに凹んだりしない。私よりももっと優秀で広範囲の知識を持っている人からのアドバイスだと思ってますし、ましてや自説が賛同を受けるなら、非常に嬉しく思うのみです。
ところが、絶対的な「正しさ」にはまり込むのは、案外理科系の人間だったりするのかも知れません。数学の教師と自称する人の日記(http://plaza.rakuten.co.jp/ksyuumei/diaryall)を見ると、この人は完全に「論理の袋小路」に嵌まり込んでいることがわかります。現実的に論理をどう生かすのか、ということを全く無視して、論理の正しさのみを追求する快楽に溺れているんです。こうした議論では、ある前提を置かなければならないわけですが、政治的な問題においては理系における「公理」に相当するものがはっきり言えばない、いや、民主主義者は「ない」と考えるわけです。だから、論理的に自説を説明する場合でも、最初の「前提」の部分に対して議論がなされるわけです。ところが、この人(秀0430さん)は面白いことに「前提を同じくしない人とは議論にしない」と言っている。つまり、民主主義的な議論は一切しない、ということです。彼に対する反論は、ほぼすべて彼の「前提」に対して行われているのです。無論、前提が認められなければ論理は成立しません。結局、数学という理系の先生にとっては「公理」がいつの間にか「真理」になってしまい、さらにこの人の好み(三浦つとむ本多勝一というマルキストの本がお好み)によって「絶対の正義」の存在を信じてしまったのだと思います。こう見ると、案外世の中の人は、理系をこういう人だと見てるのかなぁ、と思います。
世の中、すべて相対的である、というのは、アインシュタインの「一般相対性理論」です。まあ、私は理論物理学の人間じゃないので、内容はさっぱりわからないのですが、一言で言えば、世界の中に「絶対的」な存在なんてないよってことです。じゃ、この相対性理論は「絶対に正しい」のかって? もちろん、絶対に正しいかどうかはわかりません。一般相対性理論でも説明できない現象は見つかってますからね。でも、ほとんどの学者さんは一般相対性理論を覆すものを立てようとしてるんじゃなくて、相対性理論を補強する理論を立ててるように見えます。で、それも「真理」じゃなくて「今のところ、できるだけ広範囲に矛盾なく」説明できるものにとどまると思いますよ。で、それでいいと思うんです。「今のところ、できるだけ広範囲に矛盾なく」説明できるものを求めるのは、理系でも文系でも同じことですから。