私見:日本人の神様 その1 「忙しい人」が信仰の対象

私の基本的な立場として、別に諸外国の方々に日本人の宗教観を理解してくれ、とは思っていません。ただ、こういうもんなのだ、ということは認識しておいて欲しいと思う次第です。(それを理解というのかも知れませんが)
まず、自然物崇拝(岩、木、岬、山など)については、ざっくり割愛します。これは、世界のどこに行っても土俗信仰としては存在するものですから。日本ではそれが生き残り、一神教国ではそれが滅びた、ということだけ記述しておきます。ここで取り上げたいのは、専ら「人」に対する信仰です。
日本人の宗教的感覚を一番簡単に表している言葉だと、私が思っているものに、野球好きな人なら、必ず聞いたことがあるはずの、これ。
「神様、仏様、稲尾様」
日本シリーズで7連投し、3連敗の後、4連勝を遂げた西鉄のエース・稲尾和久氏を称えた言葉です。これに、何の違和感も感じない人は、宗教的には生粋の日本人です。
イスラム教徒やキリスト教徒、ユダヤ教徒なら、間違いなくこのような書き方はしませんね。というか、できませんね。マイケル・ジョーダンも「神様」と呼ばれましたが、アメリカでの扱いは正しくは「God of Basketball」です。あくまで、バスケットボールの神様。つまり、本当の神様は造物主ですから、一人間である「稲尾様」と同列に書くことは、神様への冒涜になるからです。だから、「稲尾様」は聖者や救世主であるとか「野球の神様」いう扱いはあり得ると思いますが、神様と同列に扱うことはあり得ないと思います。聖者にしろ、救世主にしろ、それが造物主の造りたもうたものであることには変わらず、いずれも造物主を越えたり、同格の存在ではありません。なぜ、日本では、「稲尾様」が神様や仏様と同列に扱われるのかは、後で述べます。
まず、日本人にとって「神様」「仏様」って何なんでしょうか?
神様と人間の関係も、一神教とはまるで違います。日本人は建前上、その神様たちの子孫だということになっています(正確には、なっていました)。何故かというと、まず、天皇家は神の子孫だということになっています(天孫降臨の神話)。で、日本には源平藤橘の4つの姓がありますが、一般庶民はほとんどが源氏か平氏を自称するようになります。源平は、どちらも天皇家からの臣籍降下による「家」。また、藤原氏も神話に出てくる神様の子孫ということになっています。例えば、私の父の実家は、純然たる農家で、どこをどうとっても武士や貴族の家柄じゃありませんが、家系伝説上、源氏の子孫だということになっています。多分、創作(ようするにウソ)だと思いますが、こういう話は結構ありますね。ともかく、日本人全体が神の子孫だと、自称したことになります。これは、一神教ではあり得ないことは、おわかりいただけると思います。
ですから、日本人が死んだら神様になる、という考え方は「もともと神様の子孫なんだから、当たり前じゃないか」ということでもあろうと、私は思っています。
しかし、実際、ほとんどの方は仏式で葬式を出され、仏式のお墓に収められるじゃないかと、反論されるかも知れません。
でもね、よく考えてみると、日本の仏教ってお釈迦様の仏教じゃないですよね。これは実際に富永仲基という江戸時代の思想家が、現存する仏教の経典はすべて、釈迦の言行録とは無関係であることを論破し、未だにこれは破られていません。で、そんな難しい話はともかくとして、亡くなったらあっさり「仏様」扱いされる日本人の発想というのは、やはり最終的には「もともと神様の子孫だから」というところに還元されるんじゃないでしょうか。
おいおい、神様と仏様は違うだろ、と仰る方。そう、原則的には確かに違う。ところが、日本では仏様と神様は一体だったんですね。日本に仏教が入ってきたとき、日本の神様たちは仏様に圧倒されてました。そこで、神様たちが考えた(要するに神官が考えたんでしょうかね)のは、こういう論理。
「日本の神様は実は、仏様が日本人にわかりやすいように姿を変えてらっしゃるのだ」
有名なところでいうと、八幡大菩薩とか、毘沙門天とか、権現とかね。八幡神はもともと応神天皇である、と名乗っていたはずですが、いつの間にか「菩薩」とも自称するようになってる。また、よくいろんな神社で今でも使われている権現、という言い方は「権(かり)に現れた」という意味で、仏様が神様という仮の姿を使って、みんなの前に現れたのだよ、ということを自称しているわけです。ここで、日本人の信仰の中で、神様と仏様の区別がなくなってしまったわけです。
だから、死んだらあっさり仏様になれるのも、神様、すなわち仏様の子孫なんだから、何の矛盾もない、ということになります。本当は矛盾っていうか、結論ありきの論理ゲームなんだけど。これが、まず「神様」と「仏様」が同列に扱われる理由です。
次に、では、何故、実在の人間が「稲尾様」と「神様」や「仏様」と同列なんでしょうか。日本の神話に出てくる神様たちは、どうも泥臭い。国引きをしたり、戦争をしたりと、まあ、造物主としての神様に比べるとずいぶんとお忙しい。そう、忙しく働く人こそ、実は日本人にとって神様なんですね。今でも日本人は「忙しい」を連呼しますでしょ。忙しいことが悪なら、連呼しません。忙しいことは、日本人にとって尊敬されるべき、いいことなんです。何故かというと、神様が忙しく働いてらっしゃったからです。忙しく働く者を尊敬する。そして、大きな成果、常人ではなしえない成果を挙げた人は、尊敬される。これが日本人の宗教観に根ざしたメンタリティだと思います。だから、3連敗の後も、連投を続け、4連勝でシリーズを勝ち取った稲尾和久氏は「稲尾様」として、神様と同列に扱われるのです。しかし、毎日、テレビに出て「想定の範囲内です」を繰り返し、忙しくもなさそうにしていて、巨額の利益を挙げる堀江社長はまちがっても「様」扱いされないわけです。頑張って「ドラえもん」扱いです。
仏教でも、流行している宗派には、それぞれ理由があります。例えば、禅宗。禅では、自らのことは自分でやるように諭されますね。寝具を自分で片付け、自らの食事を自ら作り、自らの生活場所を自ら清掃する。日本人には当たり前のことですが、世界的に見ると、今でも案外常識じゃなかったりするんです。つまり、禅宗が流行するのは、忙しく働くことを実践するからですね。また、法華宗創価学会以外にもたくさんあり、団体数では一番多いくらい)は日蓮という個人を崇拝する珍しい仏教ですが、なぜ日蓮が受け入れられるかというと、その論理性だけではなく、日蓮の生涯が非常に忙しく働いたからでしょう。日蓮が当時の鎌倉幕府から迫害されず、諸国を流浪することがなかったら、恐らく今では日蓮の名前すら記憶されてないと思います。また、浄土宗系の仏教では、阿弥陀様が非常にお忙しい。何せ、世界の人々をすべて救わなければ、私は悟りを開かない、と宣言されているのです。そして、実際に阿弥陀様は如来になられた(悟りを開いた)のだから、本当にお忙しく働かれた、ということになる。だからこそ、仏様として神様と同列に崇められているわけです。(ちなみに私は自称・門徒です)
そう考えると、キリスト教全般は受け入れてないのに、クリスマス、バレンタインデーだけが風習として残ったのも、そんなに妙な話じゃないのです。日本のクリスマスにおける神様は、実はサンタクロースです。サンタクロースは、子供たちにプレゼントを運ばなくちゃならないから、極めて忙しい。だから、サンタクロースにあやかって、サンタクロースの真似をする。バレンタインデーも、聖バレンタインの忙しさにあやかる。それだけのことなんですね。結婚式も、あんなにたくさんの人の誓いを受け付けて、忙しい神様だ。でも、それだけ忙しい方なのだから、信用できるよねっていうことだろうと思います。残念ながら、非キリスト教徒の日本人にとっては、キリスト教の神様も役場の窓口職員程度の扱いになってしまってるんですが、それでも忙しい職員さんには敬意を表しているとも言える。従って、日本人にとっては、忙しく働き、大きな成果を残した者こそ神様になる資格を持っているということになります。
でも、そう考えると、天神様とか漂着死体信仰とか、引いては靖国信仰っていうのは、説明が付かないんじゃないか?
いえいえ、そんなことはないんです。その点については、次回に述べたいと思います。