靖国「問題」の本質

ある人は、毎日、朝夕、自宅に飾ってある神棚に手を合わせます。
この人は、あるとき、みんなに推されて、衆議院選挙に出馬しました。
そして、めでたく当選しました。
さらには、みんなの信任厚く、内閣総理大臣に指名されました。
この人は、靖国神社には参拝しません、と言いました。
だから、シナ共産党政府や南朝鮮政府は、素晴らしい総理大臣だと言います。
でも、家族しか知らない秘密があります。
この人の自宅に飾ってある神棚は、靖国神社から勧進したものだということを。
しかも、この人が手を合わせるのは「A級戦犯」の冥福を祈るためだということを。
でも、このことは、家族以外誰も知るものがありません。




信教の自由とか、内心の自由とか、思想信条の自由ってのは、結局、他人にはわからないんですよ。わかりようがないじゃありませんか。だから、公言しようがしまいが、その自由を掣肘することがないようにしましょう、というのが上記の自由なんでしょ? ただ、それが公共のルールに反することがない範囲において、という前提の下ですがね。
靖国参拝は公共のルールに反することでしょうか? 私はそうは思わない。君が代・日の丸に反対して、公立学校の式典を妨害することは、これは明らかに公共のルールに反している。その差ですよ。無論、公共のルールは、その時々で変わります。気に入らなければ、ルールを変えるべく運動すればよいのです。ただ、ルールが変わるまでは、それまでのルールに従うこと。これが社会の構成員の要件ですね。首相の靖国参拝が公共のルールに反すると考えるなら、そのようにルールを作ればよいのです。日本は民主国家ですから、議会において多数派を形成できれば、ルールを書き換えることができます。その代わり、多数派になれない間は、現状のルールに従って下さい。
上記の基本をシナ共産党政府や南朝鮮は知らない、ということも非常に嘆かわしいですが、さらに、その基本を理解できない日本人がたくさんいるのも、非常に嘆かわしい(彼らの思想が奇異、おかしい、とか言う前の問題として)と思います。
以上が、私にとっての靖国「問題」のFAです。