党議拘束云々について

私にとっての大切な盟友であるマッコイ博士が、党議拘束に関してのエントリーをされておられました。
「■ [時事] 左右ごちゃ混ぜ、自民と民主」
http://d.hatena.ne.jp/drmccoy/20050715/p1
確かにマッコイ博士が引用されている西村眞吾議員の言うこと、ひいてはマッコイ博士の仰ることも、筋が通っているように見えます。しかし、私はこの意見には与しません。というのも、これは西村議員が民主党にいるための言い訳でもあるからです。
本来、政党というのは「同じ政治的考え方を共有する集団」であるわけです。ですから、党議拘束も減った暮れもないのが本来のあり方だと私は考えています。例えば自民党の公認を得て当選したのであれば、その代表(つまり自分たちが選んだ私党の長)が掲げた選挙公約に従わなければならないのは、自明の理ではないでしょうか。郵政民営化を掲げる代表を選んでおいて(自分は投票しなかった、は理由にならない。その選択の方法は私党におけるルールがあるわけだから)、党の方針に反対しま〜す、とはこれはおかしな話ではないでしょうか。
郵政民営化が、自民党の選挙公約でなければ話は別です。選挙公約でもなく、降って沸いたような話であれば、党議拘束をかける方がおかしい。例えば、人権擁護法案なんかはその典型でしょう。これは自民党の選挙公約に入っていないから、各個人が考えればよいと思います。また、今国会で憲法改正案が提出されたとすると、これも各政党の選挙公約に憲法改正は入っていないから、当然党議拘束は関係ないということになります。
党議拘束が必要か、必要でないかは、これは各政党の選挙公約に書かれていたことかどうかで判断するべき話です。無条件に、党議拘束は不要・無用だ、という論には私はいささか承服しかねるからです。
西村議員に言わせれば、選挙民は「各個人を選ぶ」とのことですが、必ずしもそうではありません。例えば、私は選挙区の個人を選んだというよりは、明らかに政党としての自民党、そして自民党の構成員である候補者を選んでいます。つまり、これが政党政治の要諦だと思うのですよ。
西村議員の言うことは、確かに理屈は通っている。でも、西村議員は政党政治を否定しているに等しいわけです。でね、西村議員は民主党の構成員とは思えないような発言をしていますね。これは西村議員が民主党にいる理由でもある。選挙民は政党によって選んでいない、個人を選んでいるのだ、と。それなら西村議員は民主党の公認を得ないで選挙に出るべきでしょう。
それで一つ思い出しました。明治期の外務大臣小村寿太郎は、当時の日本の政治について次のようなことを述べていた、と司馬遼太郎さんは「坂の上の雲」で紹介しています。

小村寿太郎の政党論。
「日本のいわゆる政党なるものは私利私欲のためにあつまった徒党である。主義もなければ理想もない。外国の政党には歴史がある。人に政党の主義があり、家に政党の歴史がある。祖先はその主義のために血を流し、家はその政党のために浮沈した。日本にはそんな人間もそんな家もそんな歴史もない。日本の政党は、憲法政治の迷想からできあがった一種のフィクション(虚構)である」
藩閥論。
藩閥はすでにシャドウ(影)である。実体がない」
ついでながら、小村は日向飫肥藩の出身で、薩長人ではない。
「ところがフィクションである政党とシャドウである藩閥とがつかみあいのけんかをつづけているのが日本の政界の現実であり、虚構と影のあらそいだけに日本の運命をどうころばせてしまうかわからない。将来、日本はこの空ろな二つのあらそいのためにとんでもない淵におちこむだろう」

この予言は今も当たり続けているような気がします。今の政界で藩閥に相当するものは何かというと、官僚機構に相当するんじゃないかと。官僚機構にべったりな人たちが、与野党双方にいて、その政党自体も私利私欲で集まった徒党であると。
まあ、藩閥=官僚というのは、コジツケ臭いと自分でも思いますが、少なくとも現在の政党が私利私欲のために集まった徒党であることは、間違いないのです。西村議員の言う「個人が選ばれる」という発言は、まさに「人に政党の主義がない」ことを表しているわけですね。
私は、少なくとも選挙公約の内容については、党議拘束は当然のことだと思います。党議拘束あればこそ、選挙公約は守られるかどうかが判断できるわけだし、各政党内における議論も深まるのではないのでしょうか。党議拘束のない自由な投票は、選挙民を愚弄するものだと思います。
その典型が、今の自民・民主の現状です。考え方がまるで違う人たちが共存しているわけでしょ。冷戦時代には、イデオロギーの枠で分かれていたわけですが、すでにその時代ではない。それなら、政党にもそれなりの「組替え」があってしかるべきだとも思います。