本当の姿はどっちなんだろう?

さて、昨日の読売新聞6面の国際面に載っていた記事です。少し長くなりますが、全文引用いたします。
「戦中の日タイ交流記録−旧日本兵と地元住民・・・ ヘルメットや水筒 遺品集め「博物館」」

第2次大戦中、インパール作戦に備えてビルマ(現ミャンマー)国境に近いタイ北部で道路建設に携わった日本軍兵士の携帯品などをコツコツと収集し、「第2次世界大戦博物館」の開館に寄与したタイ人がいる。チェンマイ在住のチューチャイ・チョムタワットさん(63)。戦後60年を迎え、チューチャイさんは関係者の老齢化とともに消えゆく記憶をとどめようと、日本人有志の協力も得て、博物館維持などのため「日・タイ平和財団」設立も目指している。(タイ北部クンユアムで 吉形 祐司、写真も)
1995年にクンユアム郡警察署長として赴任したチューチャイさんは、郡内の各家庭で、旧日本兵の水筒や外套、毛布、鉄製ヘルメットなどが保管されているのに気づいた。
聞き取りを進めると、これらの品々は、旧日本兵が食糧や果物と引き換えに地元のタイ人に与えたものだった。また、アジア諸国に伝わる旧日本軍の「蛮行」とは逆に、兵士と地元住民の関係は極めて良好で、友情がはぐくまれていたことも知ったという。
防衛庁防衛研究所によると、クンユアムに駐屯していたのは「戦史叢書」に記述のある南方軍指揮かの第21師団工兵隊で、遺品は同工兵隊のものと見られる。
「ここに日本兵がいて、タイ人と交流した事実を記録に残したい」。チューチャイさんは、空き家だった群の建物を旧日本軍の博物館にしようと思い立ち、戦時中の状況の調査を進めた上で、博物館開設に尽力。96年、開館にこぎ着けた。
展示物の9割は、チューチャイさんが約100万バーツ(約270万円)の自費を投じ、住民から買い取ったり、ミャンマー領内からさび付いた軍用車両を取り寄せたりするなどして収集。所蔵品は現在、1000点にのぼる。
日本軍は43年ごろから、地元のタイ人を雇用して道路建設にあたらせた。当時、日本軍に協力した警察幹部の息子ジャルーン・チャオプラユーンさん(70)は、「寺院や学校に駐屯していた日本兵は規律正しく、子供の面倒を見たり、稲刈りを手伝ってくれたりした」と振り返る。
しかし、44年に始まった無謀なインパール作戦で状況が一変。ビルマから敗走した日本兵が命からがらクンユアムにたどり着くと、住民は介抱して食べ物を与えた。ビルマでは、行き倒れた日本兵の遺体が産卵、退却路は「白骨街道」と呼ばれた。クンユアムで日本軍が建設した道路は、その終着点ともなり、無数の遺体が横たわった。
当時ビルマので軍馬の世話をしていた獣医師の井上朝義さん(83)(山口県防府市)は、マラリアを患いながらクンユアムの病院にたどりついた一人。「私はタイ人のおかげで、生きて日本に戻れた」と語る。
チューチャイさんは今年3月、チェンマイ県に財団設立を申請した。タイで情報誌を発行する林均さん(43)ら日本人有志3人もこれに賛同。博物館の維持管理や、日本兵にかかわった人たちの貧困救済などを目指す。
日本兵を助けた地元のタイ人は次々と亡くなっている。財団から少しでも援助してあげたい」と林さん。チューチャイさんも「日・タイ友好の象徴を後世に伝えたい」と話している。

ジャーナリストの鑑のような記事ですね。現地での情報を、きちんと国内の生存者に確認を取り、すべてが実名によって描かれている。これぞジャーナリズム。内容も大変素晴らしい。もし、表彰があるのなら、今年の最優秀新聞記事に推薦したい。
さて、タイは当時、日本と同盟国でしたので、その分は多少割り引いて考える必要があると思います。しかし、タイでこのように規律正しく、かつ地元の人々と友好関係を築いていた日本軍が、他の国で言われているような暴挙を行っていたとは、ちょっと考えられない気がします。このタイでの日本軍に関する記事は、日本による台湾統治の現状に似ているところがあります。
それにしても、朝鮮半島民族やシナ人が主張するような、残虐・野蛮な日本人像とは相当に違うような気がするんですが、一体どっちが正しいんでしょうか。日本軍が野蛮で残虐な振る舞いをしていたのなら、その日本軍の遺品を地元の方々が戦後50年も60年も大事にしているとは思えません。タイに駐屯した日本軍だけが、非常に寛容で、心優しい軍隊だったのでしょうか。あるいは、シナに侵攻した日本軍は、日本でも寄りぬきの残虐な人間を集めた「精鋭」たちだったのでしょうか。どうも、私には解せません。
つまり、シナ人や朝鮮半島の方々か、タイ人や台湾人(あるいは東南アジアの方々)のどちらかが嘘を吐いているということなんでしょうね。