「国民」を名乗るとはいかがわしいねぇ

「新党は「国民新党」・党首は綿貫氏」
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20050817NT000Y91517082005.html
さて、この件については、「泥酔論説委員の日経の読み方」のエントリが見事に解説下さっていますので、そちらを引用させていただきます。
「追い込まれた末の新党では」
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=329372&log=20050818

亀井氏らがどこで道を誤ったのかを遡って考えると、6月28日の郵政法案修正を巡って自民党総務会が初めて全会一致を捨て多数決でこれを了承した時だと思います。
総務会とは「党の運営及び国会活動に関する重要事項を審議決定する」、党大会、両議院総会に並ぶ議決機関であり、党則では確かに多数決を謳っているにも係わらず、党内に亀裂を残さないため全会一致を慣例としてきました。
従って、「反対する総務がいても反対意見を述べた上で、退席し、形式的に全会一致とする方式を維持してきた」(時事通信)という、たいへん歪んだ議決を延々と行ってきたのです。
そもそも論として、常に全会一致などというのは民主主義国家ではあり得ない話で、自由と民主主義を標榜する政党にしては、名は体を表さずといったところでしょう。
亀井氏らにとっては、この慣習を党執行部が破ったことが「独裁的」であり「強権的」であると捉え、小泉政権への反発を強めます。
執行部は党内の意見を集約した上で、修正案を総務会に諮ったわけですが、どんな案だろうが民営化自体に反対だった人にとっては、最初から受容れがたい話だったのですから、ならば慣習に従って意見を述べて退席するのが彼らの本筋だったのではないでしょうか。
退席もしなければ、総務会の審議も進めない、決を取れば強権的というのでは、野党の牛歩戦術と同じで反対のための反対をやっていたというだけです。

小泉氏の手法の方が、よっぽど民主的であり、自民党も晴れて自由「民主」党を名乗れるような政党になったということだろうと、私も思いますね。
で、私は「国民・市民」を自称する方々には、若干のいかがわしさを感じてしまう性質です。民主国家では意見が分かれることを前提にしているわけですから「国民・市民」の中には、自分たちの賛同者もいれば反対者もいるわけです。自分たちの賛同者をもって「国民・市民」と呼称するのは、いささか風呂敷がでかすぎると思うんです。逆に言えば、この「国民新党」なる新党には、自分たちが掲げる政策的理念もなければ、思想的な理念もないということを表しているわけですね。だから非常にいかがわしい。
ついでに、この新党の参加者は今のところ、前職議員は3名だけの参加に止まっています。なぜ、他の「反対票」議員が参加しないかというと、この集団の目的は、綿貫と両亀井の3人の復活当選のみ、というところにあるんですね。つまり、亀井静香の客寄せパンダにはなりたくない、ということでしょう。それほど、かつては自民党内で権勢を誇ったこの3人は、選挙区で落選しそうな雰囲気を感じているということでもあるんでしょうね。