敗者は敗戦の瞬間から次なる勝者の候補者

最近、まるで産経の回し者みたいになっている私ですが、決して産経の工作員ではありません。しかし、本日の産経も100円を出して読む価値があります。
選挙から2週間、日本の「有識者」はひたすら「国民はバカ」と繰り返しておりますね。しかし、本当の知恵者はそんなことは言わないわけです。本日のご紹介は、阿久悠さんの連載コラム「阿久悠書く言う」より。例によって、全文紹介ではありませんことをお許し下さい。
「怨み節も嘆き節も 歌い手が泣きすぎると 心に響かない」(ネット上のソースなし)

怨み節や嘆き節は、泣くのではなく、怨み嘆きを共有させて、泣かすことである。それを歌手が百パーセント泣いてしまうと、聞き手はポカンと見つめるだけになってしまう。場合によっては呆れる。
さて、これは、カラオケ指導でも演歌指南でもない。終わったばかりの第四十四回衆議院議員選挙に於ける、多くの敗者の弁を聞きながら、歌い手が泣き過ぎる怨み節、嘆き節のことを思ったのである。実によく泣いた。

ここで阿久悠さんが言われる「敗者」とは、必ずしも選挙に出た政党および後援団体の方々だけを指しているのではないと思います。反小泉反自民をファッションのようにまとっていた「有識者」(筑○哲也とか勝谷○彦など)にも当てはまると思います。

現実の戦いに敗れたと認めたくなくて、モノノケとしての小泉純一郎の名前を使ったのであろう。
そして、怨みと嘆きと、怒りを縷々として語った。それは正直美しくなかった。何故そのような結果になったかという分析と反省が全くなく、如何に相手が理不尽で、自分が不運であったかだけを、延々と並べ立てる。

菅直人の「小泉ハリケーン」発言を始め、マスコミ分析に出てくる「小泉劇場」なんかその典型でしょうか。

そればかりか、このような投票行動に走った選挙民たちを、催眠術にかけられた愚民、風に乗せられたお調子者扱いをして侮辱した。彼らが戦った相手を罵倒する権利は持っていても、一般国民を軽薄扱いする資格はないのだ。

これを言ってくれる日本人有識者がほとんどいないのは何故なんでしょうか。

敗者は勝者より美しく、敗因を他に求めてはならない。また、敗者は敗戦の瞬間から次なる勝者の候補者である。終わりではなく始めである。
その大いなる機会を、またショベショベ泣いていては、また明日もないと思われる。

「敗者は敗戦の瞬間から次なる勝者の候補者」。これが民主主義社会の真髄です。良い言葉ですね。さすが、言葉のプロ・阿久悠氏の真骨頂です。