靖国神社と国民国家の形成

昨日の大阪高裁の判決です。
「「首相の靖国参拝違憲」大阪高裁判決、賠償は認めず」
http://www.asahi.com/national/update/0930/TKY200509300136.html

大谷正治裁判長は首相の靖国神社参拝を総理大臣の職務として行われたと認定したうえで、「靖国神社に特別なかかわりをもったというべきで、憲法二〇条三項の禁止する宗教的活動にあたる」として違憲判断を示した。

違憲判決ではなくて、違憲「判断」です。つまり、裁判長どのは「オレは違憲だと思うんだけどね〜」と述べただけなんですが。詳しくは、名塚さんの「あんた何様?日記」の昨日付エントリをご覧下さい。
「あ〜バカバカしい違憲判断。」
http://www.enpitu.ne.jp/usr4/bin/day?id=45126&pg=20050930

傍論は裁判官の独り言みたいなもんで、先例にもなりえないし、法的拘束力もありません。「参拝は内閣総理大臣としての職務行為で、憲法で禁止された宗教的活動にあたる」と述べ、違憲と判断したわけですが、それならば、日本国の指導者は、戦没者を弔うのに無宗教の施設でないと行ってはいけないって事ですか? 無宗教の施設じゃなきゃダメというのならば、今後一切の神社仏閣には行ってはいけない事になりませんか? また、戦没者追悼式典や原爆記念式典とかも出来ないことになりませんか? 慰霊という行為自体霊魂の存在を前提とした宗教行為なのですから。(改行は引用者が編集しました)

しかし、この件をきっかけに、再び靖国神社首相参拝論議が出てきそうなので、とりあえず私の見解を述べておきたいと思います。
●信教の自由は全国民に保証されたもの
内閣総理大臣は、衆議院議員から選ばれます。衆議院議員は、国民から一定の要件を満たした日本国民(日本国籍を有する者)から選ばれます。ということは、日本国民に保証されている信教の自由は、内閣総理大臣にも保証されることは自明の理です。政教分離の原則と信教の自由は、対立概念ではありません。同じことを、国民の立場で見れば「信教の自由」、公権力の立場から見れば「政教分離」となるだけのことですね。つまり、今回の判決の方が司法権によって国民の「信教の自由」を侵したということで、政教分離の原則を踏みにじっているということになります。何故、司法の役人(裁判官)がその程度のことがわからないのかが、私には不思議です。
●信者でなければ放っておいてくれ
私は浄土真宗の信徒です。そして同時に、靖国神社(および全国の護国神社)に対する信仰を持つ者です。日本各地に存在する神道、すなわち神社に対しても信仰を持ちます。具体的な行動としては、年末に除夜の鐘を聞き、新年に神社に初詣に行き、毎日神棚に水を捧げ、実家に帰れば仏壇に手を合わせ、お盆にはお墓参りに行き、そして時間の都合が許せば靖国神社護国神社)にも参拝します。こうした私の宗教的な信条を邪魔して欲しくない。靖国信仰を持たないのなら、それはそれで批判するつもりはございません。その代わり、靖国信仰を持つ人間がその信仰を現すことを邪魔しないで頂きたい。信者でないのなら、放っておいて下さい。靖国信仰者が国家転覆(征服)を狙っているような事実でもあるのでしたら、それは弾劾して下さって結構ですが、今のところ、そんな話は聞いたことがありません。
無宗教の追悼施設って何?
国立の無宗教の施設があれば、誰でも気兼ねなく参拝できる。これは非常に耳障りの良い言葉ですね。しかし、生死観を司るのが宗教であるはずです。亡くなられた方を追悼する施設は、そのまま宗教的なものでしょう。どの宗教形式で死者を追悼してもかまわない、というのなら、すでに千鳥ヶ淵があります。わざわざ無宗教の追悼施設を作るということは、単に「無宗教という名の国立宗教」を作ることになるわけですが、これは靖国神社に反対する方の論理としては正しくないのではないでしょうか。
国民国家の形成へ向けた努力
国民国家という概念が日本にやってきたのは、明治維新直前のことでした。明治維新の立役者の一人である大村益次郎は、司馬遼太郎の小説「花神」の主人公ですが、合理主義の権化とも言える人でした。彼は緒方洪庵塾で蘭学を学び、軍事的な才能を見出されていきます。大村は、西洋軍事学を通じて、西洋列強の強さの根源に「国民国家」が存在することに気付くわけです。
それまでの日本は、いわば独立国家共同体でした。300の藩、すなわち独立国に分かれており、徳川氏がその「独立国」の中の最大の国として、天皇家から日本列島地域の外交権を委託されていたにすぎません。これは国民国家とは程遠い。そこで大村(やその他の維新元勲)は、日本を国民国家に仕立て上げることを目標にしたのですね。例えば、西郷隆盛戊辰戦争が1年そこそこで終わってしまったことを悔いてました。要するに、フランス革命のような社会全体を攪拌するような大きな戦乱がないと、国民国家は生まれない、と西郷は思っていたんですね。
大村益次郎のアイデア
さて、戊辰戦争をあっさり終わらせた張本人こそ大村です。その大村も、国民国家の必要性を感じていたわけですが、彼の面白いところは(そして優れているところでもある)、国民国家の成立させるために、日本の伝統的な価値観に頼ろうとしたのです。
大村の出身は長州ですね。長州藩は毛利家が殿様でしたが、毛利家の流れから、防長二州は代々真宗と結びつきの強い土地でもあります。それに対し、薩摩では真宗は「念仏停止」といって、切支丹並みの弾圧を受けていました。つまり、長州と薩摩では宗教的に対立する部分があるんですね。他にも、日本には仏教の宗派が多数あります。それぞれの宗派でお葬式で読むお経が違います。戊辰戦争という、いわば国民国家形成のために命を落とした兵士(しかもこの兵士はすでに長州藩幕府軍では非武士階級から選ばれていた)を祀る際、仏式で行っては、この宗派間の壁を乗り越えることができません。そこで、大村が考えたのが、神道形式による鎮魂方式だったのですね。
神道による死者鎮魂は、それ以前にも行われてきていました。有名どころでは天神さんがそうです。また、海岸沿いでは漂着死体に対しては、神道形式で祀ります(諸説あると思うんだけど、相手の信仰宗派がわからないから、というのも一つあるのではないかと)。大村はこれにヒントを得たんでしょうね。また、当時の尊皇攘夷的気分が過剰に乗り移って、廃仏毀釈運動まで起こっていた時代に、仏式の戦没者慰霊などは危険なことだったでしょう。また、上手い具合に日本の神道は、その原型が文献的に天皇家に遡ることからも、尊皇攘夷の空気にマッチングするものでもあったわけです。つまり、日本が古くから持っていた神道という割合普遍的な宗教概念で戊辰戦争戦没者慰霊を行うことによって、より穏健に国民国家を成立させたんですね。普通なら、一庶民までが革命戦争に参加することによって、国家の一員であることを自覚するわけですが、日本ではそうした戦乱を経験することなく、亡くなった人の慰霊によって国家の一員であることを自覚できた。この大村のアイデアは素晴らしいと思います。
なぜ、大村はこんなアイデアを考え付いたのでしょう。一説には、大村は攘夷主義者であったから、というものがあります。確かに大村は攘夷主義者でした。彼は日本に西洋式軍事思想を持ち込んだ人ですが、生涯洋服は着ず和服で通した人ですし、福沢諭吉の語録に師匠・緒方洪庵の葬儀の際に、攘夷の何が悪い、とすごい剣幕で怒鳴っていた、というものも残っています。しかし、それは大きな理由ではないと思います。もっと合理的な理由があった。それは、日本が戊辰戦争のような革命戦争を何年も続けていたら、列強に蚕食されてしまうという危機感があったのだと思います。まず、大村の軍事司令官としての才能から、あっさりと戊辰戦争終結させることは可能だと判断した。また、西郷の言うような国民国家形成も必要であることも理解している。その上で、戦争を短期終結させ、かつ国民国家形成させる方法として、神道形式によって慰霊し、各地に招魂社として祀ることを考えたのだと思います。この招魂社が靖国神社護国神社の原型になったのですね。
●防人への敬意
さて、昭和19年頃に流行した歌に「同期の桜」があります。5番の歌詞を拾ってみます。

貴様と俺とは同期の桜 離れ離れに散ろうとも 花の都の靖国神社 春の梢(こずえ)に咲いて会おう

「貴様」と「俺」は戦争で離れ離れに散るかも知れない。そして、「貴様」と「俺」の仏教宗派が違ったら、あの世でも一生会えないかも知れないんです。だけれども、靖国神社ならみんなが共通した信仰である神道だから、ここなら会えるな、という意味の歌なんですね。戦争という国難に当たった兵士たちが、心の拠り所にしたのが靖国神社であり、招魂社神道だというわけなんです。決して、天皇を現人神と強制的に崇め奉らせた象徴が靖国神社ではないのですね。天皇陛下が神ではなく人間であることは、当時みんな認識していたことです。(拙日記「■[社会] 戦前戦中は本当に皇国洗脳国家だったのか」http://d.hatena.ne.jp/sanhao_82/20050701/p1を参考下さい)
大村は、日本人の「心」を十分に考えた上で、招魂社を作ったのです。今、話題になっている「国立無宗教追悼施設」なるものは、どこに「心」があるんでしょうか。ただ単にモニュメントを置きました、これが無宗教の追悼です、ということが、果たして国防という重要な行政サービスに従事されている防人(通常、軍人や兵士と呼ぶ。今の日本では自衛官)への敬意の表し方であるとは私には思えません。