こまった人

以下の文章は、いかにも私が書きそうなことかも知れませんが、違います。書いている方は66歳の元研究医です。とりあえず、名前は伏せて紹介します。

憲法には思想の自由、信教の自由を保障している。それなら「個人としての」小泉が、どこの神社に初詣しようが、それは「個人」の問題である。「公」でも「私」でもない。日本語では、公私の別はあるが、公個の別がない。これは「近代」国家としては問題である。だって、それがなかったら、憲法に書いてあることの意味が不明になってしまう。思想や信教の自由は、いったいだれに対して「保障されているのか」。「個人」であろう。極端な話だが、小泉個人がオウム真理教を信じていたとしても、私は差し支えないと判断する。「そのこと自体」は犯罪でもなんでもないからである。ただし落選すると思う。それは信教の自由が、結果的に落選という政治的現象を引き起こしただけである。

靖国に祀られている対象を問題にする向きもある。A級戦犯がどうとかこうとか。正月にいったい何百万人の人が八幡宮に詣でたであろうか。戦争中には、あれが戦の神様だったことを、どれだけの人が覚えているだろうか。そもそも鎌倉の鶴岡八幡宮であれば、源氏が作ったもので、戦の神様に決まっている。かつて戦争の間、あそこで必勝祈願をしていた人々を私は記憶している。にもかかわらず、この現代に八幡宮を初詣する人の大群を見て、日本は相変わらず軍国主義だと思う人がどれだけいるだろう。

シンガポールの昭南神社は自動的に消滅したが、靖国は自動的に消滅しなかった。なぜか。そこには日本的な意味があるからであろう。俺は日本人だが、そんなものはいらない。それはそれでいい。神社が明治以降、政治的に利用されたことは明らかだからである。しかしそれなら戦後消えたかと言えば、消えなかった。政治はその意味での「現実」を認めざるをえない。

私は近代主義者でもないし、保守主義者でもない。しかし宗教が人間に欠かせないものであることは、知っているつもりである。だからこそ現代でも、宗教がらみでこれだけ世界中がもめる。じゃあ、宗教なんて、害があるだけじゃないか。そうは思わない。タバコと同じで、害はよく見えるが、益はなかなか見えないのである。宗教がなければ、別なもめごとが生じるであろう。宗教を正面から否定したマルクシズムの犠牲者に聞けばいい。それが可能なら、虐殺された三百万人のカンボジアの人々に尋ねればいい。ポル・ポト派を後援した中国に責任はないのか。

靖国参拝がなぜ必要か、それはこの欄で何度か説明した。指導者とは、別な意味では加害者であって、その意識を明瞭に示すのが靖国参拝なのである。小泉首相が説明しなければならないのは、そのことであろう。

記事を書いたり報道したりする人たちは、その意味ではしばしば他に対する責任を感じないで済む人たちである。「俺はそこまで偉くない」と、自分で思っているからであろう。メディアの根本にあるのは、そのことだと思う。その文脈でなら、メディアの報道より靖国に参拝する小泉のほうを私は信用する。少なくとも「国のために犠牲になった」人たちに対する小泉個人の思いが、そこには素直に見える。それ自体は「間違った」信念ではない。そうした人が「国による犠牲」を無意味に出すはずがない。と思いたい。

(太字は引用者による)
この文章を書かれたのは、解剖学者で虫取り屋の、養老孟司先生。出典は、中公新書の「こまった人」です。これは、同じ中公新書の「まともな人」の続編です。
養老先生は一体「まともな人」なのか「こまった人」なのか。もちろん、私は前者だと思いますが、私たちが「こまった人」だと思う方々には、養老先生や私たちが「こまった人」になるのだと思います。これが養老先生流にいえば「バカの壁」なんでしょうかね。