マスコミと警察、信頼できるのはどっち?

この件に関しては、全てのマスコミの足並みが揃っているようです。
「犯罪被害者基本計画きょう閣議決定 匿名発表消えぬ不信」
http://www.sankei.co.jp/news/morning/27iti001.htm

政府の「犯罪被害者等施策推進会議」(会長=安倍晋三官房長官)は二十六日、犯罪被害者の名前を「実名」「匿名」のどちらで発表するかの判断を警察に委ねることになった項目の削除や修正には応じず、原案通りの基本計画案を決めた。二十七日の閣議で正式決定する。計画期間は平成二十二年末までの五年間。

さて、この件に関しては、記事によれば、

犯罪被害者の実名、匿名発表をめぐっては日本新聞協会などから「原則、実名にすべきだ」との意見が出されていた。

これに対して、犯罪被害者および家族の方々は、

全国犯罪被害者の会」代表幹事で、自宅に侵入した暴漢によって妻を殺害された岡村勲弁護士は「事件で傷ついた被害者が実名発表で、さらに傷つくこともある。葬儀をあげることもままならない」と主張する。他にも自らの経験から「実名か匿名の判断は被害者自身の判断に委ねるべきだ」とか、「加害者に比べ被害者ばかりが報道被害に遭う」と考えている被害者は多い。

加害者の方は、結構匿名だったりします。速報では名前がわからなかった、という言い訳は通用しますが、その後の経過はほとんどのマスコミは報道してません。また、ある特定の国籍を持つ外国人の犯罪に対しては「通名」報道し、本名を隠すことを意図的に行っている報道機関もあります。被害者としては「なぜ、自分たちが世間の晒し者にならなければならないのか。むしろ、加害者こそ晒し者にすべきではないのか」と思うものではないかと思いますが。
それに対してマスコミは、

一方、メディアは「報道の自由」や「国民の知る権利」を擁護する立場から、当該事項の削除を求めている。新聞協会や民放連は「事件や事故を正確に客観的に取材、検証し、報道するためには実名は欠かせない」と訴えた。

一見、正論のようなことを言っていますが、少なくともマスコミは「国民の知る権利」を国民に代わって行使する立場ではないと思うんですが。それから、自由や権利を主張すると、その対極にある人の自由と権利をぶつかるわけです。このとき、どちらの権利を優先するかは、理屈では恐らく決まらない。そういうことを、最近ベストセラーになっている「国家の品格」の中で藤原正彦先生は仰っている。で、そのときに判断する基準は、理屈ではなくて、社会の常識によるのではないかと。このとき、明らかに弱者である犯罪被害者を労わるのが、日本社会の常識であると思いますが。

新聞協会は意見書で「国民に知らせるか知らせないか、警察に最終判断を任せていいのか」と訴えている。

警察は、一応、国民が選挙によって選んだ議員によって制定されたルールに従って、国民が選挙によって選んだ行政責任者の責任において、活動しています。つまり、警察の不祥事その他については、最終的に国民の側がそれを修正する手段を持っています。しかし、マスコミは我々国民が選んだ覚えもありませんし、そのような最終判断をしろと要求したこともありません。どちらを信頼するか、という問題ではなくて、どちらに自分たちの「手」が届くかといえば警察である、というだけのことだと思います。何を思い上がっているんだ、マスコミは。
どちらにしても、大事なのは犯罪被害者の当事者の方々の意思を尊重することではないのですか。皇室典範改正論議でもそうだったんですが、何で「当事者」を無視して議論するんですかね。
この「当事者」無視は、ひょっとすると日本の悪弊かも知れませんし、これとマスコミがセットになると、とんでもない害悪を生むような気がします。
この行を書いていて突然思い出したのが、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」の中に出てくる、旅順攻略戦の様子。あくまで小説の描写ですが、児玉源太郎(日本軍総参謀長)が乃木軍にやってきてみると、司令部が戦場から遠く離れた後方にある。そして、軍が展開された様子が描かれた地図を見ると、同じ名前の部隊が違う場所に二つ書かれている。乃木軍の参謀たちは、自ら偵察に行くこともなく、後方で報告だけを受けて作戦を立てていたのだと。これがまさに「当事者」(ここでは実際に戦闘している部隊)を無視することで、多大な犠牲を蒙った例として、司馬さんは描いていました。
そして、日露戦争の後始末だったポーツマス条約の内容に不満を持った国民は、新聞報道に踊らされ、暴徒と化し、唯一、ポーツマス条約は已む無し、と書いた国民新聞を焼き討ちするという事件まで起こしました。これはマスコミが扇動して、世論を惑わした例ですね。マスコミも日露戦争に関して、まるで「当事者」意識がなく、戦争継続を煽ったりしたわけです。
マスコミの害悪はどうしようもないとしても、国民一人一人は何かにつけて「当事者」意識を持つことが大事なんじゃないでしょうか。その中で、日本人が最も大事な美徳というのが社会の常識になればよいな、と思います。
その日本人の最も大事な美徳とは、何か。今年最後のエントリとして、やはり敬愛する司馬遼太郎さんの文章をご紹介して、本年の〆めといたします。
来年もよろしくお願いいたします。