週刊新潮より 高山正之氏「変見自在」

06.1.5/12号より
「中国人化」

毛沢東文革の名で林彪など幹部から庶民に至るまで二千万人を殺した。
ただ殺すだけでなく彼らの祖先の墓を暴き、鞭死の辱めを加えたので「中国から墓が消えてしまった」と北海閑人の「中国がひた隠す毛沢東の真実」にある。
毛はこのとき日本の新聞も粛清した。彼を賛美する朝日新聞を除いて他紙の支局をすべて閉鎖し、特派員を追放したのだ。
その後、毎日や日経は反省のポーズをとり支局再開を許されたが、産経だけは服従を拒否して中国の醜さを報道し続けた。
北京政府は腹立たしく思ったが、だからといっていつまでも産経を締め出していれば共産党の狭量さ、いかがわしさを世界に宣伝しているようなものだ。
それで追放から三十年後の一九九八年に支局の再開設を認めた。産経は台湾に支局を出していたが、それは敢えて問わなかった。それが浅慮だった。
朝日は台湾を無視することが北京への忠誠と思っていたから、この対応にびっくりする。台北に出ても文句を言われないのかと。
かくて各社は競って台北に進出した。自由・台湾の動向は重要だ。人々の性格もいいし、何より化学調味料まみれでない本物の中華料理も楽しめる。
そして各社が出揃ったところであの台湾大地震が起きた。死者は二千四百余人、道路は寸断され倒壊家屋も千棟を越えた。
日本のテレビや新聞は連日この被害を伝え、政府はすぐに救援隊を派遣した。
義捐金は山をなし、国士舘大の学生や徳州会の医師らが手弁当で救援活動に出かけていった。
台湾はウチのものだと言い張っていた北京の出足は鈍く、朝日がそれを取り繕うのに苦労していた。
久しぶりに見る日本に台湾の人々は感激した。
もともと日本に親近感をもち、若者には「ハーリー(ハーはくちへんに合。リーは日)族」がいて、高砂族は今も日本語を日常語にしている。
そういうお国柄が刺激された。震災の三ヶ月後、台湾政府はほぼフランスのTGVと決まっていた台北−高雄間の高速鉄道を日本の新幹線に逆転決定した。
日本人も現場で多くを学んだ。「毛沢東に敗れた蒋介石が根拠地にした島」ほどのイメージだったのが、実は中国人の蒋介石に占領され、酷い目に遭わされ、今やっと「中国のくびきを振り切って自立しようとしている国」だと判ってきた。
蒋介石の後継者の連戦らがさかんに北京に行き、敵のはずの共産党政権と肩を組んで「台湾は中国の一部」を叫ぶのは、領土欲にかられる侵略民族・中国人の素顔にほかならない。

その中国政府は日本人の中に台湾を思う気持ちが広がるのを見て思う。産経の支局開設をなぜもう二年待てなかったか、と。
そうすれば地震が起きたときあんなにたくさんの日本のテレビや新聞が勢揃いはしなかったろうに。
そして洪水のような報道もなく日台間の距離も縮まらなかっただろうに。
日本にも台湾にも収穫のあった地震だが、その地震報道の映像に、倒壊したビルの柱の中に空き缶やドラム缶が詰め込まれていた情景があった。
あれでセメントや鉄筋をけちったのか。ひどい手抜き工事だったが、それについて李登輝氏が「あれが蒋介石の連れてきた中国人のやり口だ。日本人から学んだ台湾人にはない発想だ」と話していた。
その台湾のTV局が今回の姉歯事件を「日本の豆腐摩天楼」と名づけ「日本でも手抜き工事があった」と驚いて報道していた。
業者も設計者もモラルを失い、民間検査機関も機能しない無責任さは台湾に来た中国人と変わらない。
菅直人がテレビで民間検査機関の堕落を衝いて「何でも民営化はよくない。民よりはカンがいい。カンでなくては」と官と菅を引っ掛けて売り込んでいた。
しかし、関係者に言わせれば、かつては設計や構造などにインチキする者はいなかった。だから無能な官の検査でもよかった。それが民営化されたが、検査官は無能な官がそのまま天下っただけで実態は変わっていない。
要は官とか民ではなくインチキをしなかった日本人が中国人なみになってきたことが問題なのだ。
新しい年、李登輝氏の言う日本人がどんなだったか思い出す年にしたい。

菅直人は一体どこまでバカなのか、また菅直人を代表に選ぼうとした人が、半数近くもいた民主党って本当に大丈夫なのか、と思ってしまいますが、それはまあ些末な話。
技術の現場にいる人間としては、教訓にしておきたい話です。年末には南朝鮮の「最高科学者」という人物が壮大な「インチキ」をしていたわけですが、日本人もシナ大陸文明人に「堕ちない」ように尽力する2006年でありたいものです。