震災から11年ですね

もうそんなに経ちますか。あまり年月の経つのが早いと思わない私ですが、震災のことだけはつい昨日のことのように思います。
あのとき、同じ下宿に住んでいた連中は、元気でやってるのかな。
当時、私は6畳一間、家賃2万そこそこのオンボロ下宿に住んでました。普段は、ほとんど話をする仲じゃなかったんだけど、震災の日は妙にみんな団結してました。下宿の中に、一人だけ大学院2年の「長老」がいて、彼がテキパキとみんなに指示を出してました。電車の運行状況、避難場所の情報を確認して、遠方に実家がある者は、早めに神戸から出るように指示をしてくれてました。
私たちは、震災の翌日、西日本に親族がいる者4名でチームを組んで、自転車と原付で4時間くらいかけて西明石まで避難。そこから、各駅停車に乗って姫路まで。そして新幹線に乗り換えて、広島、岡山などに。姫路で新幹線に乗ったとき、みんなで缶ビールを飲んだとき「生きていてよかったな」と思ったものです。
この「長老」だけじゃなく、大学の友人たちにも助けられました。
震災当日の昼前、神戸に下宿していた友人数人が私の下宿に現れた。そして開口一番、
「お前の下宿、倒れてないのかぁ! オレなんか、2階なのに起きたら1階やで!」
と陽気に笑ってました。よく考えたら不謹慎だと思いますが、それでも友人の屈託ない笑顔に周囲も笑っていた記憶があります。また、下宿が倒壊しなかった他の友人が、「どうせお前はびた一文持ってないはずやから」と2万だったか3万だったか、私に貸してくれました。これがなかったらどうこう、という事態にはなりませんでしたが、とても心強かった。
私は一晩だけ、近所の小学校に避難したのですが、そこでたまたま、フィリピンパブを経営されているオッチャンと話をする機会がありました。私に缶ビールを手渡してくれて、彼はこう言った。
「わざわざフィリピンから来てくれた姉ちゃんたちに、ホント、申し訳ない」
かける言葉がありませんでした。辛うじて、この地震はオッチャンのせいやないで、と言うのが精一杯でした。それでも、オッチャンは私に「すまんな、兄ちゃん」と言ってくれた。
亡くなられた方や、その親族の方、また神戸にもともとお住まいの方々にとっては、笑っていられる状況ではなかったことは理解しています。しかし、私の周囲の神戸の方々は、震災直後から「こうなったもんはしゃあない。何とかしよか」という気分に溢れていた。これが神戸を復興させた大きな力になったのだと思います。
今の日本には、「しゃあない。何とかしよ」という気持ちが少し足りないのではないか。そう思った震災11年目です。