政教分離と信教の自由 真面目に考えてるか?

靖国参拝云々は、本当のところはもう取り上げるのもうんざりしています。しかし、ことの根本が理解できていないのだから、そこはしつこく申し上げていこうと思います。
シナ共産党政府の都合
まず、シナ共産党政府や朝鮮が靖国神社の参拝を問題にしており、日本はそれに応えなければならない、という議論があります。しかし、その点については、昨日の拙日記でも取り上げた、大平首相の例をもって答えとします。大平首相は「戦犯」合祀後に、3回、参拝を行いました。その際、国内でもマスコミだけではなく、国会でも実は取り上げられました。しかし、シナ共産党政府は、その後に行った訪中では熱烈に歓迎されたとのこと。
そして、2005年に靖国参拝をした小泉首相は、首脳会談を拒否されています。この一連のことで分かるのは、結局は、シナ共産党政府に諸般の事情があった、ということです。諸般の事情は何だったのか。ヒントは、Wikiの「華国鋒」を引くと出てきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%9B%BD%E9%8B%92

毛沢東周恩来時代の末期の外交路線を踏襲し、アメリカ合衆国との接近とソビエト連邦との対決を進めた。

一方、ソビエト(レオニード・ブレジネフ共産党書記長)との対立は依然として厳しく、国境では人民解放軍の大軍がソビエトの侵攻に備えた。日中平和友好条約締結の際には、中国側がソビエトを念頭に「覇権主義への反対」を条文として盛り込むように要求し、「第三国」という表記で決着するという事態になった。
また、1978年1月にソビエトの支援を受けたベトナムカンボジアに侵攻し、ポル・ポト首相の民主カンプチアを倒すと、ポル・ポト政権と関係の深かった中国は激しく反発し、1979年1月には「懲罰」と称してベトナムに侵攻した(中越戦争)。ただし、人民解放軍は大きな損害を出し、軍事・外交の両面で得る物はなく終わった。その後も、カンボジア内戦ではポル・ポト派を支援し、ベトナムとの外交関係は断絶したままであった。

要するに、シナ共産党政府のお家の都合で、靖国神社に対する考え方が変わったんです。だったら、なおさら、この「問題」はシナ共産党政府が解決すべき問題で、日本に責任はありません。朝鮮にいたっては、突然、ノムヒョン大統領が言い始めたようなもんです。だから、日本は放っておけばよろしい。
政教分離の勘違い
もう一つは、シナ共産党政府が言っているから、という理由を表に挙げず、政教分離の原則に反すると主張する方々がいます。こっちは、日本の法治国家としての存立に関わる問題であり、看過できません。
そもそも、政教分離の原則と理解していない人が多すぎる。政教分離の原則ってどういうことですか?と聞くと、どういう答えが返ってくるか。
「国家権力が特定の宗教に介入、あるいは加担しないことを定めた原則」
という意味を答える人が多いと思います。これはこれで正しいと思います。では、政教分離という言葉を、日本国憲法に書かれている言葉で言い換えて下さい、と質問したらどう答えますか?
実は日本国憲法には「政教分離」とは書いていない。書いてあるのは、「第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」とあるのみ。つまり、政教分離の原則を日本国憲法に書かれた言葉で言い換えたら「信教の自由」となります。
20条には「何人に対しても」と書かれている。公人だの私人だのの区別は書かれていない。ここが重要なポイントです。
信教の自由を突き詰めて行くと、どのような宗教を信仰していたとしても、日本国民である限り、公職に就くことを妨げられない、ということです。それは、20条2項に書かれています。
「何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。」
つまり、参加することは構わない、と書いてあるだけです。参加してはならないとは書いていない。さらに、3項では
「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」
つまり、「国とその機関」には宗教的活動を禁じています。ここで政教分離が信教の自由とリンクしているのですね。
憲法というのは、国家、憲法で言うところの「国とその機関」と「日本国民」個人との間の契約書です。信教の自由という権利を突き詰めていけば、「国とその機関」が宗教行為をすることは相成らぬということになる。何故なら、「国とその機関」の構成員である公務員も、日本国民個人であり、その個人に信教の自由が与えられる以上、国とその機関が何らかの宗教行為を行おうとすると、2項の条文に反するわけです。公務員が「宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加すること」を強制されるからです。
ということを考えれば、実は毎年やっている戦没者慰霊式典などは、本質的に憲法上、問題がある。これを信教の自由の侵害だ、と訴えるのなら理解できます。しかし、こちらに対して訴訟を起こしたという話は聞きません。にも関わらず、首相が靖国神社に参拝すると、政教分離の原則に反する、と訴える。どう考えても、阿呆の議論です。
首相が靖国神社に参拝することを認めることは、信教の自由の行使であり、日本社会の中で政教分離の原則が守られている立派な証であり、むしろ誇るべきことです。もちろん、今後、靖国神社に参拝しない首相、閣僚、および公務員が出てきたといって、それを咎めてもいけません。そこは個人の自由です。
例えば、首相の在任中に首相の親族が亡くなったとします。首相に「神社参拝」という宗教行為を認めないのなら、首相が親族の葬式に参列することも同列に禁じられることになります。首相に認められないのなら、同じ行政権の行使者である公務員も等しく禁じられます。行政権の行使者の末端には、公立学校の教員がいます。公立学校の教員は、冠婚葬祭に出ては相成らぬことになります。そして、それは司法、立法の行使者にも同じように適用されなくてはなりません。ですから、国会議員や地方議員は、等しく冠婚葬祭に出てはならないし、裁判官や検察官も同様になります。
要するに、公務員になるためには、信仰を捨てよ、と言っているのと同じなんです。これは、まさに踏み絵でしょうが。そんなのある宗教を信仰するものから見たら、「無宗」教という宗教にしか見えません。で、実際に「無宗」教徒ってのがいるんですよ。それが、共産主義者じゃないですか。それが今、北京の紫禁城に巣食っている共産党の幹部です。だから、日本でもリベラルの仮面をかぶった共産主義者社会主義者が、靖国を問題にするんでしょう。彼らの守るべき日本国憲法は9条だけ。信教の自由なんか認めない。宗教停止。彼らの理想はそこですよ。
政教分離の原則は、個人の信教の自由を守るために、三権が必ず遵守すべき項目である、ということで、実は同じことを書いているんです。そこがわかっていないから「首相の靖国参拝政教分離の原則に反する」と主張する輩が出てくるんですよ。ふざけるな、と言いたい。
ここまで書けば、わかってもらえると思います。日本国憲法を守ろうという気持ちがあるんなら、靖国参拝なんて問題にしないということです。その意味では、私は誰よりも護憲派ですよ。だって、96条の改正条項だって守ろうと思ってるんですからね。
信教の自由が、憲法というルールに書かれていないのなら、まだ議論の余地はある。でも、日本国憲法というルールに書いてあるのだから、まずはルールを守ることから議論を始めるべきです。ルールが気に食わないなら、改正しましょうという議論をすべきでしょ。
裁判所の判例がどうのこうのじゃない。まずは、自分の頭で、信教の自由と政教分離、そして日本国憲法に書かれていることをしっかり、もっと真面目に考えましょうよ、ね。