いい加減、コミンテルン史観から脱しよう

本日の産経新聞朝刊「正論」を紹介します。久しぶりに渡部昇一先生のご登場です。転載にほぼ近く、渡部先生や産経新聞著作権に触れる気もいたしますが、全文引用とさせていただきます。
「日本人は残虐非道の民だったのか」(上智大学名誉教授 渡部昇一

最初に仕掛けたのは誰か
「シナ事変(日中戦争)は昭和12年(1937年)7月7日に盧溝橋事件で始まったのではなく、同年8月13日に上海で始まったのだ」
という趣旨のことを、故ライシャワー駐日大使がもらしておられたという話を聞いたことがある。
盧溝橋事件の方は、シナ北部だけの文字通りの「事変」で終結した可能性が高い。この事件の方は有名だが、8月13日から始まった上海事変(第2次)の方は、現在75歳以上の人でないと記憶にないであろう。しかし、これが本当の大事件で、大戦争に連なったのである。
トレヴェニアン(Trevanian)という作家のベストセラー「シブミ(Shibumi)」という小説で、この8月13日前後の上海の状況を読んだことがある。この小説は1979年(昭和54年)に米国で出版され、邦訳もされている。
それによると、シナ軍の攻撃が始まったのは12日であり、翌日には爆撃機が日本の領事館や軍艦・船舶などに爆弾を投下したほか、フランス租界地の市街も爆撃した。シナ民衆の娯楽センターであった「大世界」にも命中して、4人以上が死んだほか、イギリス人経営のパレスホテルやカセイホテルにも命中し、外国人を含めて200人以上が死亡したのである。
ライシャワー大使のお兄さん、ロバート・ライシャワー氏もカセイホテルでこのとき亡くなられた。この事件を「シブミ」は生き生きと書いているのだ。今から二十数年前にシナ軍の暴挙を曝いたトレベニアンはどんな人なのか分からないが、小堀桂一郎氏もこの小説についての論文を書いておられた。
この事件の話を最近、再び読んだ。それは今評判の「マオ」の上巻343ページあたりである。この事件はコミンテルンの手先であった張治中という将軍が、蒋介石の命令に反して起こしたものであることを述べている。このため上海方面では全面的な戦いが始まり「・・・73個師団−しかも精鋭部隊−40万人以上を投入」したのである。
盧溝橋といい上海といい、そこで戦闘を起こしたのはコミンテルンの指示を受けた中国共産党の将軍たちとその部下であることは今や隠れもない。東京裁判で被告になった東条英機元首相が、宣誓供述書の中で、「シナ事変以来、日本は常に受身であった」という趣旨のことを述べている。そして裁判中に行われた検事との応答では、いつも元首相が勝っているという印象であり、この時ばかりは東条嫌いの人たちの間でも彼の評価は上がったという。
侵略国家と呼びたい人々
極端な例では、東京裁判において日本を断罪するよう指令し、その裁判の法源であったともいうべきマッカーサーが、裁判終結の約2年後にはアメリカ上院の軍事・外交合同委員会という公式の場で、東条元首相の主張に沿ったような発言をし、しかもその発言を「従って日本が戦争に突入したのは、主として自衛のためにやらざるを得なかった」と言って締めくくったことは、日本人のすべてが知るべきだと思う。
靖国神社問題にしろ何にしろ、日本人がペコペコしている感じがあるのは、日本人にシナ事変の罪悪感があるからではないだろうか。
清朝満州族の王朝)の正統の皇帝を、その発祥地に再興することを助けた日本の行為を侵略と呼びたかったのは、コミンテルンとその影響下にあったシナ人と朝鮮人と日本のインテリであり、その見解は今日なお有力である。リットン報告書にさえ「簡単に侵略などとはいえない」と書いてあるのに。
概ね受動的であった日本
近頃になって昭和史を書く人たちの中には、日本の中国に対する原罪説みたいものの影響を受けていると思われる例が少なくない。戦前の大陸にいた日本兵は残虐非道だと思い込んでいるらしいのである。事変の初めのころに、そこから2000キロも離れたところで日本軍の婦女暴行事件があったというとんでもないことを書く人もある。日本人は一方的にシナ人をいじめたと書く人もある。
つまり、話が満州事変や日中戦争のことになると、日本人は一方的に悪人になってしまうのである。日本の民間人が迫害され続け、殺され続けたあげくに戦争になったことが忘れられている。東条元首相が断言したように、日本はたいていの場合、受動的だったからである。それがうそだと思う人は、東京裁判関係の記録を読むとよい。否、マッカーサー証言の一行だけでも十分なのだ。