中国人化する日本人

私が「中国人」というときは決して褒め言葉ではありません。むしろ、「シナ人」と言ったらば、シナ大陸に住む人のことを漠然と指しますので、後者の方が私の敬意が篭っていると思って下さい。
まず、話の枕に、養老孟司先生の「死の壁」から引用させていただきます。

エリートというのは、否が応でも常に加害しうる立場にいるのです。決して昨今いうところの、単にいい大学を出ているとかいい企業に勤めているとかそういう人たちを指しているのではありません。
たとえば乃木稀典陸軍大将を例にとってみましょう。日露戦争二百三高地で彼はたくさんの若い兵を死なせてしまった。さまざまな見方はあるでしょうが、だから最後は自分も腹を切った。
兵隊を死に追いやった重さを乃木大将は背負わなくてはいけなかったからです。エリート、人の上に立つ立場の人というのは、本来こういう覚悟がなくてはいけない。常に民衆を犠牲にしうる立場にいるのだ、という覚悟です。
新潮新書死の壁」、p.138〜139)

さて、中国には、今の共産党政府も含めて、エリートという存在はいなかったと考えてよいと思います。そもそも歴代の王朝は、全て「私」であり、「公」の概念がなかった。民百姓のことを考えた王朝は、露骨に言えばありません。「私」である王朝と、そのスタッフである官僚による、民への徹底的な搾取構造だったと考えていい。だからこそ、辛亥革命の指導者だった孫文は、日本の「公」の意識を中華民族も持て、と言ったわけですね。
こんなことを言うと、日本の歴代の政権だって「私」じゃないか、という人がいるかと思いますが、それは当てはまりません。福沢諭吉は、その著作の中で「立国は私である」と明確に規定し、日本人が持つ「公」への過剰な意識を指摘しています。
エリートというと、日本ではあまり良い意味を持たれなくなって来ましたが、エリートとは日本語で言えば「公」にあたる、と私は考えます。将軍のことを「公方」というのも、将軍やそれに連なる支配階層は、基本的には「公」である、ということを意味している。つまり、公方を支えるスタッフにも、公の概念はあったということです。でなければ、265年間も江戸幕府体制が継続するはずがありません。しかも、幕藩体制は欧米やシナ大陸でいう「革命」とは全然違います。要するに幕藩体制では、国際社会に飲み込まれる、という危機感から、政治形態を変えたということです。
江戸幕府の末期にいたエリートの典型的な二人として、勝海舟小栗上野介がいます。どちらも、幕藩体制の限界を知り、勝は幕府を潰して、新しい集権国家を作るべきと考えた。小栗は、将軍を中心に据えた郡県制国家を模索した。結果は勝の見立ての通りに動き、小栗はいわゆる官軍によって処刑されることになります。しかし、小栗は小栗なりの国家観がありました。後世の我々は、官軍に抵抗した小栗を「国賊」と罵るようなことはしません。これも、小栗が「公」に殉じたからです。
ところが、今の政治家や財界人に、こうしたエリートがいるように思えない。いや、いるんだけれど、エリートじゃない人が本来エリート、つまり「公」のポジションにウヨウヨしているように思うんです。
エリート、つまり「公職」というのは、何らかの形で他者を死に至らしめる可能性のある職業だ、と養老先生は仰られた。まさにその通りでしょう。立法府の構成員は、ルールを作る。そのルールによって、人が死ぬことだってあります。刑法なんかまさにその典型的な例です。また、司法府、つまり裁判官も、今の日本のシステムでは死刑を宣告することがあるわけです。また、行政府は、警察官や軍人(日本なら自衛官)を死に至らしめることがある。また、外交に失敗すれば、日本が戦争に巻き込まれ、国民を死なせることになるかも知れません。また、交通行政に失敗すれば、多数の犠牲者が出ることだってあるわけです。しかし、どうも今の政治家たちにそのような気概があるとは思えないのです。
かつて、左翼系の政党はこんなことを堂々と言っていました。
「戦争になったら、攻められるままに、死ぬ方が良い」
これは、あまりにエリート意識、公職にあることを忘れた意見としか言いようがありません。自分の決断によって、他人が死ぬことを何とも思っていないわけですから。
そして、現在、異様な状況になってきた「A級戦犯」と「靖国神社」の件。「A級戦犯」を分祀すればいい、と多くの人が言う。しかし、それを政治家が言っていいのか、と思います。
A級戦犯は当時、日本国の法的な手続きに則って公職にあり、行政の責任を負った人たちです。そして、その決断によって戦争をする道を選び、その結果を多くの人を死に至らしめた上、日本は戦争に負けてしまった。
A級戦犯を批判するとき、その行政的な方針、立法のあり方などを問題にし、検証した上で批判するのは結構だと思います。それは戦争を真摯に受け止め、研究する姿勢だと思います。しかし、そのことは、これまでの日本で一切行われていない。
それでいて、A級戦犯とされた人が靖国神社に祀られたら「こいつは悪人だから」「彼らのせいで死んだ人たちと一緒に祀るのか」と文句を言う。それを靖国神社に親族が祀られているご遺族の方々が仰るならわかりますが、どう見ても関係のなさそうな人間が言う。しかも政治的な思惑まで付け加えている。
要するに、今の政治家諸氏に共通しているのは「自分は他人を死なせるようなことは絶対にしない」と思い込んでいる点でしょう。そうでなければ、「A級戦犯」とされた方々をこのような形で誹謗中傷はできないと思うのです。自分は絶対に他人を死なせない。死なせた「A級戦犯」はオレとは違う。そう思っていなければ批判できない。
日本は古来から、何事も「明日はわが身」と思ってきたはずです。そのことは、平家物語を読めば冒頭に書いてあります。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

A級戦犯」とされた方々も、真珠湾攻撃からしばらくは、まさに「盛者」であったでしょう。しかし、その後、平家物語に書かれたとおりに「必衰」した。それは、今でも同じじゃないのか。
今の政治家の多くは「オレとA級戦犯は違う」と思っているけれど、それはたまたま運が良かっただけです。今の日本の周囲環境は、戦争の可能性が少なく、平和な状況ではあります。でも、それは先人たちの努力と捧げられた命によって得られた結果なんじゃないんですかね。つまり、生まれた時期が悪かったら、「A級戦犯」のように泥沼の戦争を遂行しなければならないかも知れなかったんです。東条英機氏だって、今の世の中で政治家をやっていたら、戦争なんかやろうと思うはずがない。
「盛者必衰」は、日本人が持つ最大の政治思想だと私は思います。その意識があるからこそ、明治期以降、容易に民主主義が根付いたんでしょう。他のアジア諸国で、日本のようにきちんとした民主主義が根付いている国は、ほとんどありません。何かあれば、クーデターだのデモで選挙無効だのの騒ぎになる。13億人を抑え込む独裁国家だってあります。
シナ大陸の歴史を見てみれば、日本との違いはすぐにわかります。彼らは墓を暴いて死者を鞭打つ国なのです。彼らは、政権は全て「私」です。公の概念などない。自らを正当化するためには、前王朝を徹底的に悪者にしなくてはならない。そこに出てくるのは、
「オレはコイツらとは違う」
という感覚でしょ。そうでないと、「私」集団が権力を掌握できないんです。そういう歴史を繰り返したから「公」や「明日はわが身」なんて考え方が出てこない。そして、この「オレはコイツらとは違う」という考え方は、日本の政治家が「A級戦犯」を語るときの姿勢と全く同じですよ。しかも、それをよしとする、今の日本国民がいる。
私が、表題にした「中国人化する日本人」というのは、こういうことです。