麻生案、全く解決になってませんから

無宗教は「特定の宗教じゃない」という意味だ、とか、「追悼」は宗教行為じゃない、とか、私は、本気でそう言ってるのか? 国語をきちんと習ったのか? と思いますよ。特に、官僚とか議員とかがそう言ってると。
宗教ってのは、つまるところ、人間とは何故生まれ、生き、そして死ぬのか、というものに対する答を提示するものでしょう。その延長線上に、過去に死んだ人々を悼む気持ちがあるわけですよ。例えば、旧来の日本的な神道だったら、現世に何か思い残しのあった方々は祟るかも知れない。それを恐れるが故に、そういう方々を祀るわけです。これは、現世に生きる人々自身が、もし自分がそういう立場に置かれたら、このようにして欲しい、という生死に対する気持ちの表れですよ。これを宗教と呼ばずして、何と呼ぶのでしょうかね。
でね、靖国神社を非宗教法人化したり、「A級戦犯」を排除(分祀なんて生易しい言葉を使うのは間違いです。明らかに、排除、ですわな)したところで、何の解決にもならないのですよ。
今のほとんどのマスコミ、シナ、朝鮮半島のご希望通り、靖国神社から「A級戦犯」が排除されたり、非宗教法人になったりしたとしましょう。しかし、ここに一人の男が、これでは英霊が浮かばれまい、と考えた。また、「A級戦犯」だって、国難に殉じたのだ、と考えた。その上で、自宅の庭に小さな祠を作って、神道の形式でお祀りすることにした。それが、近所で評判になり、またネットなどを通じて、その存在が知られるようになった。その男は「参拝したい」という他の人々を受け入れ、参拝者の方々はいくばくかの「賽銭」を残すようになっていく。
やがて、この祠を参拝する人が増えてきた。そこで、自宅の庭では手狭になったので、参拝者から集めた「浄財」で、新たに土地を購入し、その際、祠を大きな神殿に建て替えた。それを契機に「康国神社」と名乗ることにし、宗教法人となった。
この「康国神社」の信者は、徐々に拡大していき、その信者から国会議員が出てくるようになる。やがて、この信者が所属する政党の長となり、その政党が衆議院総選挙で第一党となり、この信者が内閣総理大臣になったと。
このとき、この内閣総理大臣に「康国神社に参拝しちゃダメ」と言えますか? キリスト教の教会に行ったり、仏式の葬式に出たりすることと、宗教的に全くの同列の行為でしょうが。
結局、今の靖国神社だって、現行憲法上では同じことなんです。靖国神社から宗教法人格を取り上げても、康国神社が出来たら、何の解決策にもならないでしょ。康国神社の宗教法人格を認めない? それは信教の自由に反する違憲行為でしょうが。
大事なのは、国が何かのモニュメントを造ることではないでしょ。国民が、戦争で亡くなった人を慰霊・追悼し、できることなら戦争を回避しようという気持ちを持つことが大事なんでしょ。また、これから先、戦争が起きたとき、それを遂行する責任を負った人は、実は自分と紙一重の存在なのだ、ということを心に留めておく必要があるんでしょ。靖国神社が「A級戦犯」を祀っているのは、そういうことですよ。戦中だって、日本はきちんと総選挙をやっているんですよ。それで、「反東條派」だってきちんと当選しているんです。前にも書いたけど、東條さんだって、今の日本に生きていて、首相をやっていたら、絶対にシナ相手に戦争なんかしませんよ。だから、私は「A級戦犯を排除しろ」という人々、特に、政治家と呼ばれる人たちの中にいる、「排除論者」は信用できないのです。自分が政治に関わっている間は、絶対に戦争をしない。いや、戦争にならない。だから、「A級戦犯」とオレは違う、と平気で言えるんです。そんな無責任な連中に、三権の行使を委ねられるかよ、と思いますよ。
靖国神社が嫌だ、というならそれで結構です。だったら、自分たちの納得できる形で追悼・慰霊をすればいいのです。それをいろんな形で表せることこそ、日本が多宗教を包容した自由主義国家であることの証じゃないですか。追悼・慰霊を、国税にたからないとできないような人間の持つ気持ちを、私はとてもじゃないが信用できませんな。