護国神社に行ってきました。

今日はお盆でもあるので、私は彦根城の隣にある、滋賀県護国神社に、家族を連れて参拝してきました。
ご本山の靖国と違い、滋賀県護国神社は静かでした。マスコミの皆さんも、靖国神社の参拝をどうこう言うなら、自民党支持者である私が護国神社に参拝していることも問題にしたらどうなんでしょうかね。小泉首相と私、どちらも等しく日本国民ですよ。私にだって、内閣総理大臣になる権利はあるわけですからね。
昨日、テレビを見ておりましたら、東京大学の哲学の教授という肩書きの、高橋哲哉とかいう人物がこのようなことを言っておりました。
「首相の靖国神社参拝は、政教分離を定めた憲法に違反する疑いがある。疑いをかけられることすら恥ずかしいことである」
こんな言論で、東大教授が務まるのなら、私は東大の総長が務まりそうです。同じ東大の教授だった養老孟司氏が東大を辞めた理由も何となくわかります。東大の空は小さいんですな、きっと。
何度も言いますけど、現時点では、靖国神社の存在、そして首相以下、日本国および地方自治体の公務員すべてが靖国神社に参拝することは、全く日本国憲法に反しません。むしろ、公務員の靖国参拝を認めないことが、憲法に違反します。何故なら、靖国信仰者である私は、公務員になると信教の自由を奪われることになるからです。これは、憲法20条に明確に書かれている。また、首相や国務大臣は参拝してはいけない、というのも、国民の間に信教の自由を制限する「区別」を導入することになり、明確な「差別」となります。これも憲法に反する。
靖国神社に行かないからといって、私はその人を全く信用しないわけではない。しかし、靖国神社に行く他人を批判したり、その批判の理由に「外交」などを挙げるような人物は、私は全く信用できないのですよ。特に国会議員や首相、大臣ならなおさらです。
これらの職業は、もしかしたら私たちが、その職に就く可能性があるものなんです。ということは、自分がその職に就いたときのことを考えれば、自ずから答えが出るでしょうが。国会議員や首相、大臣になったら、冠婚葬祭も行けないのかと。小室哲哉靖国神社で結婚式を挙げてるんですよ。で、例えば私の息子が小室哲哉氏に影響を受けて、その結果、靖国神社で結婚式を挙げるかも知れないわけですよ。そのとき、私が内閣総理大臣だったら、息子の結婚式に行ったらダメなんですかね。明治神宮だったらいいんですかね。平安神宮だったらいいんですかね。でも、護国神社だったらダメなんですか? 八幡宮は戦争の神様だからダメなんですかね? いけないなら、きちんと法的な理由を示して下さいよ。私はずっとそこがわからないと申し上げているんです。
何で、こういう問題を、自分の身に置き換えて考えることをしないんですかね。特にマスコミという商売は。自分の立場は、いつでも容易に変わるんですよ。養老孟司先生は「バカの壁」とか「死の壁」なんかで、そのことを言ってるんですよ。自分が変わらない、と思うから、今の自分は永遠だと思う。だから他人の立場がわからないんでしょ。自分の親族に当時の軍人さんがいたら、とか、自分がそのときに総理大臣だったら、と考えることができないんでしょ。東條英機さんの孫娘さんがテレビにも出演されてますが、自分が同じ立場だったらどう思うだろう、とか考えることはできなんですかね。
だから、養老サンをマスコミは呼べないんですよ。養老サンの話が、マスコミにはわからない。自分は絶対に「公」の立場に立たないと思っているからですよ。こんなヤツらが、自らを社会の「公器」というんですぜ。自己矛盾も甚だしい。
養老サンの本を読んでみればいい。自分は変わる。変わることがそもそも人間の前提じゃないですか。そうじゃなかったら、成長なんてあり得ないでしょ。教育だって、相手が変わることを前提にしてるから成り立つんでしょ。今じゃ、大人はみんな自分は「変わらない」と思っている。これが養老サン流に言う「都市化」「脳化」じゃないですか。
自分は変わらない、と思っているから、「A級戦犯」が簡単に批判できるんですよ。ナベツネ新聞の特集、ありゃなんですか。いつから、読売はシナ共産党政府と同じような紙面を作るようになったんですかね。戦争責任は指導者にあり。はい、そうですか。って聞ける話じゃないでしょうが。読売の記者は、山本七平とか読まんのか。朝日や毎日の記者は、天敵みたいなもんだから読まんでしょうがね。山本七平の「昭和天皇の研究」を読んでみればわかる。第二次大戦中の日本では、戦争反対、早期終結を訴えた議員がいて、きちんと当選もしているんですよ。ってことは、結局、戦争の継続、泥沼化ってのは、民意でしょうが。で、その民意を煽ったのはどこの誰なんですかね。マスコミがすべて悪いとは言いませんよ。何故なら、マスコミだって国民なんですからね。なら、答えは必然的に出てくるでしょう。当時の世相から見たら、戦争をやることは国民の多数の意思だったのだとね。責任を問うなら、何で負け戦にしてしまったのか、という「行政責任」であったり、あるいは予算を通した「立法責任」じゃないんですかね。その責任は、どちらも最終的には国民に降りかかってくる話でしょ。
だから、「戦犯」の名誉回復に、当時の日本国民は圧倒的な支持を与え、それを実現させたんじゃないですか。それは、当時の日本国民みんなが、「指導者」ってのが自分とは紙一重の存在であり、自分がそういう境遇に立たされたらどうなんだってことを考えたからでしょ。その子孫たる我々が、そういう想像力を失ってる。挙句に、東大教授とやらが「憲法違反の疑いをかけられること自体、恥ずかしい」とか言う。そういう東大教授を国税で雇っている方が恥ずかしいですわ。
でね、都市化・脳化した典型的な民族ってのが、シナ人と朝鮮人ですよ。朝鮮人なら1300年、シナ人なら2000年も儒教にどっぷり浸かってるんですよ。儒教って何ですかね。簡単に言うなら、人間と自然を分ける思想じゃないですか。人間は冠をかぶる、暑くても服を着る。儒教思想から外れた連中を、彼らは動物扱いした。シナ王朝の周辺国の国名を見れば分かるでしょ。倭なんてまだ人偏があるからマシですわな。まともな字が書かれているのは、朝鮮半島だけですよ。儒教は人間と自然を分けるんです。自然って何ですかね。自然ってのは、日々変わるものでしょ。人間は日々変わっちゃいけない。それが儒教の教えでしょ。それを拡大したら、当たり前だけど儒教社会には発展がない。だって、変わっちゃいけないってことは、変えちゃいけない。
そして、儒教では自然は滅ぼすべき対象です。だから、三峡ダムなんですよ。制御できない自然はいらない。三峡ダムの存在は、シナ共産党政府の基本イデオロギー儒教であることの証ですよ。2000年前には、ここまで自然を変えられるパワーが人間になかったんですが、それをシナ人が持った。で、こんなバカなことをやる。シナに戦争で勝とうと思ったら、簡単ですよ。三峡ダムを爆撃。以上。これで、揚子江下流は壊滅ですよ。まあ、シナ共産党政府は決して人民のためには働かないので、放置するかも知れませんがね。でも、揚子江下流は、シナ共産党政府のドル箱ですからな、放置もできんでしょうな。
で、人間って本質的には自然の存在でしょ。それを養老サンは説く。反論できる人、いますかね、人間は自然だってことについて。で、自然は変わる。人間も変わる。変わるものが作った社会ってのも、そんなに強固なものじゃなくて、変わる。だから、その中における社会的な立場も変わる。それを第二次大戦直後の日本人は知っていた。というよりも、当たり前のことだったんでしょ。だから、「戦犯」の名誉回復も行ったし、「A級戦犯」だって恩給の対象にしたんでしょ。それもこれも、きちんと立法が手続きを踏んでやってることでしょ。靖国神社だって、それを知っている人がいたから、きちんと祀ったんでしょ。報ステで、合祀に反対したという元職員がしゃべっていたけど、そりゃアンタがおかしいってはっきり言ってやりますよ。その頃から、日本の都市化・脳化、もっと言えば「中国人化」が始まっていたんでしょうな。
結局、マスコミも政治家もみんな何時の間にか「中国人」になってるわけです。自分は変わらない。だから、オレは戦争を絶対にしない、と平気で言えるんでしょ。じゃ、マッカーサーが米議会でこう証言した、第二次大戦時の日本に政治家としてタイムスリップさせられたら、どうするつもりなんですかね。

You must understand that Japan had an enormous population of nearly 80 million people, crowded in 4 islands. It was about half a farm population. The other half was engaged in industry.
Potentially the labor in Japan, both in quantity and quality, is as good as anything that I have ever known. Some place down the line they have discovered what you might call the dignity of labor, that men are happier when they are working and constructing than they are idling.
This enormous capacity for work meant that they had to have something to work on. They built the factories, they had the labor, but they didn't have the basic materials.
There is practically nothing indigenous to Japan except the silkworm. They lack wool, they lack petroleum, they lack tin, they lack rubber, they lack a great many other things, all of which was in the Asiatic basin.
They feared that if those supplies were cut off, there would be 10 to 12 million people unoccupied in Japan. Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security.

そのときシナは何をやってたんですかね。結局、内輪揉めしてただけじゃないですか。たまたま国民・共産の両党のバックにいたアメリカとソ連が、対独で手を組んだから、シナ戦線でも手を組んだ。それが、国共合作でしょうが。で、そのあと、陰謀と武力、つまり戦争で国民党を追い出した共産党が、日本に「戦争責任」とか言える立場ですかね。その辺、マスコミはきちんと言うべきなんじゃないですかね。私ごとき場末のサラリーマンが知っていることを、マスコミが知らないとは言わせませんよ。
でね、みんな平和平和、戦争反対、というけれど、平和って何なの?ってことを忘れていると思います。それについては、司馬遼太郎さんが明確に答を出しておられる。これ以上の回答は、世界にも存在しないと思います。昨年も同じ文章を引用しましたが、今年も同じ文章を引用して、乱文の締めにしたいと思います。

平和とは、まことにはかない概念である。単に戦争の対語にすぎず、戦争のない状態を指すだけのことで、天国や浄土のような高度の次元ではない。あくまでも人間に属する。平和を維持するためには、人脂のべとつくような手練手管がいる。平和維持にはしばしば犯罪まがいのおどしや、商人が利を追うような懸命の奔走もいる。さらには複雑な方法や計算を積み重ねるために、奸悪の評判までとりかねないものである。例として、徳川家康の豊臣家処分を思えばいい。家康は三〇〇年の太平を開いたが、家康は信長や秀吉にくらべて人気が薄い。平和とはそういうものである。
司馬遼太郎、風塵抄より)