「家」こそいじめ自殺を防ぐ砦

いじめの問題である。いじめで自殺する生徒・児童が後を経たない。しかも、自殺した生徒・児童が通っていた学校の幹部がこぞって「自殺に繋がるようないじめはない」と最初に言う。教育委員会は、現場じゃないからわからぬだろう。しかし、本来、生徒・児童に2人称で付き合っているはずの学校の教職員が、まるで見ず知らずの人間が死んだかのような対応をしている。私は、いじめの問題の根本がここにあると判断する。
養老孟司によれば、死には3種類あるという。それが、英語などで習う「人称」に対応すると言う。詳しくは、氏の著作である「死の壁」を読んで頂ければよい。自殺が何故いけないか。それは、2人称の死であるからである。養老はそう説いた。その通りであると思う。つまり、自殺することで、自分を知っている人が大変な衝撃を受けるからである。実際、テレビ報道などで子を亡くされた親御さんの悲痛な声を我々は知った。
この「2人称」の範囲が大きければ大きいほど、自殺しにくいはずである。自分が死ぬことで、必要のない苦しみ、悲しみを味わう人が多ければ多いほど、自殺はできない。増して、親より子が先に死ぬなどということは、本当に悲しいことである。人間は、必ず死ぬ。なのに、何故、自分で命を絶つのか。そう思ってくれる人がたくさんいれば、自殺できないはずである。
ところが、こうも簡単に生徒・児童が自殺をする。つまり、その生徒・児童にとって「2人称」の領域が極端に狭いことを意味していると私は思う。その典型が「いじめはなかった」と堂々とのたまう教職員である。そのことが、すでに自殺した生徒・児童を「3人称」扱いしていた証なのである。教職員は学科を教える。それだけである。以前にも書いたが、教師とは「自分を見習え」が基本のはずである。しかし、今の教職員は「教科書を教える」人である。自分を見習えなんて、そんな偉そうにできません。そうではない。生徒・児童は、教師を見て育つのである。要するに、自分にその気がなくても、真似されるのである。そのことに気付いていない。真似した方が悪いんでしょ。そういう教師がいそうだが、だからそういう人は教師をしたらダメなのである。反面教師なんてのは、子供には普通通じないのである。だから、教職員は猛省すべし。
さらに一つ言えば、今の生徒・児童にとって、学校こそ全て、になっているように思える。学校以外の共同体に、属していない。人間は、当然ながら、一人では生きていけない。そこで、共同体を組んで生活する。本来、共同体の最も小さな単位は「家」であった。今でもそうだと思うが、この60年間で「家」の規模は極めて小さくなった。かつて「家」とは、一族郎党のことであった。両親に加え、爺さん婆さんがいて、その上、近所には本家だの分家だのがあり、叔父さん叔母さん、いとこやはとこがいた。ところが、今の共同体の最小単位である「家」は極めて小さい。両親兄弟姉妹以上。学校に比べれば、極めて小さくか細い共同体なのである。
それでも、「家」が共同体として機能すれば、いじめによる自殺は防がれると思う。私は小学生の頃、転校が多かった。そのせいで、私はよくいじめられた。しかし、私には家族がいた。特に父の存在が大きかった。父の方針で、土日に学校の友人と遊ぶことは、基本的に禁じられていた。週末は、完全に家族で過ごす。そのお陰で、私は生涯の趣味になるであろうゴルフを覚えた。泳げなかった私は、週末の父との時間のお陰で、泳げるようになった。学校でどれだけいじめられようが、家に帰れば父がいる。そこが大きかったのである。つまり、「家」という最小単位の共同体が、父を中心に強固に機能していたからである。父を盾にすれば、別の共同体からの「攻撃」を防ぐことができた。父は、私を週末だけでも学校から切り離すことによって、「家」の共同体の存在を示したのである。
学校の責任もある。しかし、今、生徒・児童が頼れる共同体が、学校しかない、というのが、いじめによる自殺を誘発する原因になっている。私はそう思う。何故なら、日本社会において、どの共同体にも属さないことは、存在を認められないことを意味するからである。「家」が共同体として機能していない以上、学校という共同体から弾かれる、すなわち、いじめを受けることは、社会的に存在を認められていないことと等価なのである。だから、結果的に彼らが自殺するしかない、ということになる。しかし、「家」なり、学校以外の共同体が存在すれば、他の共同体の構成員になるわけであり、それならば社会的な存在が認められるということなのである。ただ、その共同体がクラブ活動やスポーツ少年団とか学塾など、学校と構成員が同じようなものでは意味がない。それは、学校という共同体の中にある共同体であり、学校から独立したものではないからである。
教職員の意識改革と、「家」という共同体の再興。この二つが両方ないと、この問題は解決できない。私はそう考える。
ちなみに、「いじめ」とここでは使ったが、コラムニストの勝谷誠彦が言っていたように、同じことを大人社会でやったら「傷害」だし「名誉毀損」という犯罪である。子供の人権を本当に考えるなら、勝谷の言うように、刑事犯罪として大人と同列に扱ってやればよいと思う。学校は、いくら共同体とは言え、法治国家・日本における治外法権地区ではない。それも常識であろうと思う。