そりゃ9条の国ですからな

高校で何らかの教科の未履修が問題だそうである。そもそも、高校に単位があったのか、と今さらながらに驚いた。ある特定の進学校が、大学受験の予備校になっていることは、周知の事実だったと思っていた。私は、幸いにして、そういう意味での進学校に通わなかった。私の高校の教諭は「大学に行きたければ、予備校に行け」と宣言していた。私は、それならあえて、予備校に行かず大学に行こう、と思った。事実、高校での勉強が、受験に役立ったかというと、そうでもない気がする。というよりも、高校時代は部活がメインで、授業中はひたすら寝ていたし、起きていたら、部室か校外に出て遊んでいたからである。だから、高校の単位がどうだったか、そんなことは知らぬ。
ただ、こうした進学校のカリキュラムはルールに認められた範囲で実施していると思っていたが、教育委員会だか学校だかどっちか知らぬが、大人がルールを「無視」していたそうである。曰く、有名大学への進学率を上げるため、すなわち、優秀な生徒を集めるためには仕方がない。名よりも実を取った。そういうらしい。
実は、これは教育界だけの問題ではないのである。普通、ルールとはみんなが守るべき規則のことを指すはずである。ところが、このルールは日本では往々にして守られない。法律の弾力的な運用を。そんなのおかしいですよね。でも、日本ではルールは「みんなが守ったらいいのにね」という理想というか、標語みたいになっている。
典型的な例の一つが、道路交通法である。制限速度50km/h。しかし、この速度で走っていたら、たちまち後ろが渋滞の列である。ひどいときには、煽られる。ルールを守っている側が、悪者である。こんな訳のわからない話はあるまい。しかし、道路交通法で飲酒運転の処罰規定を変更しよう、という話は出ても、速度規定を見直そう、という話にはならない。それなら何のための最高速度規定なのか。
さらに言えば、これは憲法問題でもある。言わずと知れた「靖国問題」がそうである。日本国憲法には、信教の自由が憲法20条に定められている。しかも、この自由は個人に与えられている。政治家になったら信教の自由が奪われるとは書いていない。現実に、公明党の政治家諸兄は、創価学会という宗教に帰依している。なのに、自民党の総裁であり、日本国首相になると、靖国信仰を停止せよ、という。言うのは、マスコミとシナ共産党政府と、南北朝鮮である。これは日本国憲法を理解していないからである。靖国神社に参拝しても良いけど、政治的な結果には責任を取って下さいね。そういう話なら、私は認める。しかし、靖国参拝反対とは言ってはならない。それは、憲法違反なのである。しかし、マスコミの論を憲法違反である、と指摘する声は、評論家からも聞こえない。評論家が反論すると「靖国に参拝することが正しい。首相はすべきである」という。それも間違いなのである。憲法上、正しい態度は「勝手にしろ」しかないのである。例えば、安倍首相が靖国神社を参拝して、それが国民にとって不都合であると判断されたら、選挙の結果になって帰ってくるだけのことである。
そして、憲法問題の最大が、9条問題であろう。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」ですよ。それが、どう見たって武力である自衛隊を持っていて、イラクにも派遣する。私は、自衛隊を廃止しろ、と言っているのではない。世界の現状を考えて、日本だけが非武装ってあり得ないでしょ。むしろ、北朝鮮みたいな最貧国の方が、非武装が可能なのである。北朝鮮に何の魅力があるか。マツタケか。何とか思想の成れの果てで、禿山と表土の流出した荒地が広がるだけある。そんな国なら、非武装を宣言しても、攻め込まれまい。しかし、日本は世界の誰もが羨む経済大国である。日本のパスポートが、しばしば高値で取引されるのは、日本がそれだけ世界から羨望を受けていることの証である。こういう国は、しばしば他人からやっかまれる。アメリカもそうであろう。だから、イスラム原理主義者が特攻を繰り出したのである。アメリカが、北朝鮮のような国なら、イスラム原理主義者も特攻すまい。つまりは、日本が非武装なんてことは、現実的にあり得ないのである。だから、憲法を変えなくちゃならないはずである。専守防衛ならいいんです。そんなことは憲法には、一字一句書いてない。
しかし、憲法という国の最高法規ですら、日本人はこうして「弾力的」に運用するのである。憲法すら、この状態なのだから、学校の指導要領くらい「弾力的」に運用しますよ、そりゃ。それが日本の大人なんだよね。子供はそう大人を見ているのである。その子供が大人になったら、同じことをするに決まっているのである。
まあ、実は日本人の「ルール無視」「憲法無視」は今の始まったことではないとも言える。大宝律令は701年にできたが、大宝律令には「征夷大将軍が日本を治める」などとは書いていない。そもそも、征夷大将軍律令にはない「令外官」なのである。しかし、実際は憲法である大宝律令は明確に廃止されることなく、征夷大将軍による「軍事政権」が日本を実効的に統治した。日本の歴史自体が、ルールを無視した「弾力的な運用」の歴史とも言える。
以上から、この指導要領無視の事件は、極めて日本的な事件であり、起きるべくして起きた事件だと、私は思う。ただ、世界的に見ると明文化されたルールは守る、というのが常識的であろうと思う。また、明治以降の日本のあり方も、そうであったように思う。それなら、指導要領というルールは、守られるべきだし、また、進学校において、不都合であるというのなら、議論したうえで指導要領を修正・訂正すればいいだけのことである。ま、そこでもまた繰り返されるんでしょうけどね。これは日本的な体質なんで、付き合っていくしかないと思うのだが。