情報は新しくも古くもない

最近、拙日記の更新頻度が極めて低くなっている。ちょうど、次男が誕生した時期でもあり、また少し前には親王殿下がご誕生であった。また、小泉政権が終わり、安部政権にもなった。しかし、一番の理由はあることに気が付いたからである。
私は、8月から職場の互助会の事務局を手伝っている。事務局のお手伝いをしても、言うほどのカネは出ない。まさに「互助」である。しかし、その互助会の事務は結構煩雑である。はっきり言って、毎日互助会の仕事がある。そのため、朝7時前に出勤し、17時の定時には互助会の事務所に入る。互助会は、基本的に定時以後が忙しい。当たり前で、定時内はみんな職場で仕事をしているからである。定時以後に、事務方と窓口の業務をして、19時過ぎに退社する。これが最近の日課になっている。今までは、8時半に出社して、19時に退社するのが常であったから、2時間くらい職場にいる時間が長くなった。
さて、出勤のため自宅を出るのが、お陰で5時前になってしまった。拙宅には、この時間には残念ながら新聞が届かない。これまで出勤中に読んでいた朝刊は、今では翌日の朝、すなわち一日遅れで朝刊を読んでいるわけである。
この生活をして、面白いことに気が付いた。つまり、情報は「古くならない」のである。そういう意味では、情報は不変なのである。新しい「情報」はあるが、これはそれ以後、変わらない。その情報自体は、不変なのである。朝刊を毎朝読んでいると、昨日起きたことは消え去って、新しいことが起きているように思えたが、翌日に新聞を読めば、そこに書かれている情報は翌日にも何も変わらず残っているのである。
このことは、養老孟司が再三、著作で述べていたことである。そのことを、私は頭の中では理解していたが、実感したのは、この2ヶ月間の経験を経てからのことである。養老孟司が書いていた内容は、変わっていない。しかし、受け手である私が、変わったのである。情報は不変、人間は変わる。
そうなると、毎日のように流れるニュースにイチイチ反応するのがバカらしくなってきたのである。別に古くもならない情報を、目を皿のようにしても、別に得はしない。そうしていれば、私の妻がバレーボールの木村沙織嬢に化けるというのなら、話は別。ともかく得をしないことにバタバタ反応しなくていい。そう思っただけのことなのである。その分、気になったテーマはしつこく考える。考えがある程度まとまったら、何か書く。
人間は変わらないが、情報は日々変わる。そう思っている人が大変多い。そう養老は指摘した。その通りである、と思う。それは核武装云々の議論である。日本国憲法には、核武装どころが武装自体、国家として行うことを禁じているはずである。しかし、憲法を変えよう、という議論はしてもよい。だから、96条であり、言論の自由を認めるということである。それを禁じられないのは、与えられた経緯自体は、民主主義思想の発展だの、歴史上、社会上の理由があるとは思う。しかし、人間は変わる、ということを考えたら、言論の自由を認めない、ということは、人間が変わっちゃいけないということになってしまうのである。社会主義国家と儒教国家は、その点で等質な面を持つ。どちらも人間は変わっちゃいけない。孔子様は「君子豹変す」と言ったが、それは「君子」のみに認められている。普通の人は違う。後のシナ大陸ではそう解釈した、と私は解釈している。だから、共産党政府が社会主義を捨ててもよい。共産党政府は「君子」の集団だからである。君子だから豹変した。彼らはそういうと思う。その代わり、「君子」に統治される「ただの人」は変わっちゃいけない。私には社会主義とか共産主義儒教は、この点で同じに見えるのである。
さて、日本に話を戻す。日本が言論の自由を認めた国であることは、誰もが承知していよう。つまり、考え方が変わっても構わないのである。今、鳩山由紀夫核武装議論を容認する、という理由で外相に罷免要求をしているが、それはそれで構わないと思う。しかも、かつては、ある政務次官が同様の議論を容認する発言をした際には、その政務次官が議論しようとしたことを理由に罷免されるのはおかしい、と発言していたことも構わないのである。つまり、私は鳩山がかつては核武装議論は問題ないと考えていたが、今では議論することすら罷り通らぬ、と考えを変えたのだ、と判断する。ただ、鳩山は民主党の要職にあるし、そもそも立法権という三権の行使者の一人である。すなわち、権力者なのである。民主国家の権力者である以上、意見を変えた場合には、それなりの説明はした方がよいと思う。もちろん、説明しない、というのもそれは個人の自由であるとは思う。しかし、この問題は、少なくとも現時点において、日本の政治が抱える問題のうちの五指に入るものであろうと思う。その点で、意見を180度変えたのだから、変えた理由を説明して欲しいと、有権者の一人としての私は思う。
つまりは、鳩山がかつて発言した内容は「情報」として不変なのである。そして、最近発言した内容も今後「情報」として不変のままである。この二つのまるで異なる情報が、同じ人物から発せられたなると、それは発言者である鳩山が変わった、と説明する他ない。
私は別に、鳩山が意見を変えたこと自体には、何の問題もないと判断する。ただ、意見を変えた内容は、言論の自由を否定している。つまりは、人間が変化すること自体を否定したものと、私は判断する。これは恐らく私の誤解であろう。しかし、鳩山がこれ以上説明しないからには、私はこの「誤解」をもって、鳩山個人、そして鳩山を要職に据えている民主党を見てしまうわけである。だから、鳩山はその誤解を解くべきであろうと、親切な私は思う。
鳩山に限らず、政治家は信念や理想を持ち、それを曲げぬことが美徳である、と勘違いしているように思う。でも、信念や理想なんて変えたっていい。変えた理由をきちんと説明すれば良いだけである。ただ、しょっちゅう変わると、目利きのできぬヤツだと思われるだけであろう。その目利き云々を避けるために、自分は変わらぬ。それでは、政治はできないと思う。人間を不変だと思うから、委員会や本会議を欠席する「戦術」を思い付くのであろう。数の横暴、と言っている時点で、相手を説得する作業をすっ飛ばしている。そもそも、選挙の結果、すなわち国民への説得に失敗したのは、どこの誰か。
情報が不変であり、人間が簡単に変わることを、昔の人はよく理解していた。綸言汗の如し。武士に二言なし。言ってしまったら、それが残るのである。その後、行動や発言を変えたら、説明するのが大変であり、面倒である。だから、こうした諺が出たのである。
情報は日替わりである、と思っていると、過去の発言はどうでもいいように思ってしまうのだろうと思う。しかし、事の本質は、昔から「情報不変」である。まして、今はインターネット時代になり、「情報不変」が完全に確立された。それを理解せぬは、政治家とマスコミである。情報を出すからには、それに責任を持てるか。持てる、と称する人々は、それによって金銭を得る。それが政治家とマスコミなのだが、どうも、責任を取るような素振りは見えない。それは、一日遅れの朝刊を読んでみると、昨日と今日で変わってるじゃないか、という場面にしょっちゅう出くわすからである。だから、新聞は毎朝、律儀に朝刊を届け、地区によっては夕刊を配達する。前の情報は、なかったことにしてね。そう思っているのかな、と疑っているのである。