自分で、みんなで考える

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こんなニュースがあった。
君が代伴奏命令は合憲、教諭の敗訴確定・最高裁が初判断」
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20070228AT1G2702E27022007.html
新聞各紙の社説を見ると、読日産vs朝毎という感じである。日経の立ち位置が予想外だった以外は、そんなものか、という感じである。そこはさておく。
この問題は、実は憲法そのものに問題があると私は判断する。憲法が存在するから、こういうことが問題になるのである。もう少し譲歩すれば、憲法は改正すべきものではない、という思想や信仰があるから、こういうことになるのだと私は判断する。
順序は逆になるが、憲法は適宜改正してよい、ということであればどうか。それならば、そういうお互いが「読み違え」するような文面にしないように、議論することになるはずである。司法で合憲か違憲かを争う、ということは、憲法の条文に解釈の余地がある、ということであろう。それなら、皆が読み違えしないように、憲法を改正すればいいのである。ところが、憲法改正のハードルがやたら高いから、司法に判断を委ねることになる。つまり、ここでは訴えた教諭とやらが、自分で考えていないのである。自分で考えれば、憲法改正の手続きを求めるはずである。無論、この教諭が持つ思想が、実は護憲派であろうことは、容易に想像できるのではあるが。
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では、憲法がなければどうか。立憲国家、という言葉があるが、別に近代民主国家の条件では恐らくはない。なぜなら、憲法を持たぬイギリスが近代民主国家の祖とされているからである。だから、憲法がなくても困らない。イギリスには憲法がないから、みんな必死になって考える。ロンドンでテロが発生した後のことを考えればよい。日本なら、憲法に定めた基本的人権を盾にとって成立し得ないような法案を、イギリス人は通過させた。イギリスは原理原則を持たない。持たないことを原則としているのである。だから、みんなが必死になって考える。何かや誰かに預けないのである。今の日本では、こういう問題はだいたい憲法に預ける。憲法にこう書いてあるじゃないか、書いてないじゃないか、そこで議論が終わっている。解釈云々しているだけで、実は何も考えていないのと同じである。
だから、考える必要があるのである。まずは、憲法がなかったらどうなのか、ということを想像する。公立の学校は、基本的に国民が収めた租税を財源に設立・運営されている。ということは、公の意見が反映されることになる。公の意見とは、国会や地方議会での多数決によって表明される。ということは、君が代に「問題」があるとすれば、こういう場で議論がなされることになる。実際、これが「問題」にされ、公の意見として「公立学校の式典では君が代を斉唱せよ」ということになったのである。では、この教師がその点が不服ならどうすればいいか。一つは、君が代を一切斉唱しない私立学校に転任するなどして、転職すればいい。恐らく、憲法がなくともその自由は皆が認めるであろう。もう一つは、公の意見を覆すべく、社会活動をすればいいのである。ただし、社会活動には、それに伴う政治的な責任が生じる。この教師の場合、公の意見に基づいた業務命令に背くことで社会活動を表した。結果、公立学校における式典という一つの「業務」の遂行に支障をきたしたので、相応の処分を受けた。例えば、私が会社で仕事をサボって、社会活動に没頭し、それがために会社の業務に支障をきたしたとする。例えば、社会活動を熱心にしたため、客先との打合せを反故にしたとする。その場合、私は確実に処分を受けるはずである。以上、ここまで考えれば、自分の思想のためには、転職か、それとも処分を受けないレベルでの社会活動か、の選択肢しか存在しないことがわかる。憲法なんてモノがあるから、そこで思考を止めてしまうのである。新聞各紙揃って、残念なのは、その点に言及している社説がないからである。
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安直に答えが出る、と思ったところに裏切られると、この教師らが出した「不当判決を許さない」という横断幕になるのである。そうではない。とにかく、まずは自分で考えてみることが大事なのである。民主主義のプロセスにおいては、その自分の考えを多くの人に賛同してもらい、議会において過半数を得ることになっている。まことに迂遠なプロセスだが、それが民主主義というものである。民主主義であってもやってはいけないことがある。恐らく、この教師とその仲間は言うと思う。思うが、やってはいけないこととは何か、についてもまた、自分とみんなで考えなければならないのである。たびたびイギリスの例を持ち出して恐縮だが、イギリス人は自分のプライバシーをある程度犠牲にしても、テロリズムを防止することに寄与することを選んだ。イギリス人は、プライバシーの侵害、というものを金科玉条にせず、考えたということであろう(そもそも金科玉条ではない可能性もある)。この教師とその仲間は、君が代がいかに悪いものか、はこれでもか、というほどに発言している。それでも、世の中には、そういう認識を是としない人の方が多い。そこを考えなければならない。なぜ、世の中の人は君が代を是とするのか、その理由を考えなければならない。世の中の人は、無知蒙昧である、としていては、すでにその時点で思考停止である。
思考停止している理由は、実は自分自身の変化が怖いからであろう。特に、こういう思想的な集団を組む人たちは、自分自身の変化を恐れているように思う。でも、私はよく言うように、変化するのは人間として当然である。変化があるから、教育は成立するのである。いくら教えても理解しない、何も変わらない。それでは教育にはならない。教育とは、単純化すれば相手を「変える」作業である。その相手を変える商売をしている教師が、自分自身が変わることを恐れているように思える。
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しかし、我々はこの教師と仲間をただ笑うわけにはいかない。実は、我々自身もどこかで思考停止していることが多いと思うのである。何で、ボタン一つでエアコンから温風が出るのか。キーを回したらエンジンがかかり、アクセルを踏めば車が動くのか。そういう仕組みを知らなくても、今の世の中は問題なく生きていける。それはそれでいい。あくまで、それは人間が作った「モノ」に対してならば、まだ問題はないように思う。しかし、現代人は人間そのものに対しても、そういう安直さを要求しているのではなかと、私は疑っているのである。オレがこう言えば、相手はこう動くだろう。説明しろ、と要求したら、満足のいく説明が得られるだろう。教えろ、と言えば、正解を教えてくれるであろう。そう思っている人が、実は多いように思う。その典型が、マスコミであることは言うまでもない。新聞記者上がりのニュースキャスターが「説明が足りませんね」としたり顔でコメントするご時世である。本来、ジャーナリストなら、説明が足りないと思ったら、なぜ、舌足らずな説明をしたのかという背景と、本来説明されるべき事象を追及するのが仕事であろう。我々はメディア、すなわち媒体ですから、というのなら、仕事は録音機が代用できるはずである。そんな録音機のために、月数千円の新聞代を支払ったり、商品の購入を通じて広告料を払っているのではない。そういう安直さが、説明下手、言語能力の十分でない人たちを阻害する原因になっている。つまり、言うまでもないが、それが少子化の根本的な理由であると私は判断する。
子供は、そういう意味で全く安直な存在ではない。行動に明確な理由がないからである。それに付き合っていく、努力と辛抱と根性が、現代人には不足している。だから、子供は不要な存在になっていく。現代人とは、若者のことを指すのではない。そのことは、拙日記にコメントを下さったオジサマを見ればわかる。私が、「教えない」と言っただけで、お怒りなのである。これは典型的な現代人である。そもそも、私があの質問に回答する確証がどこにあったのか。
不思議なもので、実は教わったことは、あまり身に付かないように私は思う。というのは、私は高校時代も劣悪な学生で、ほとんど授業には出ていなかった。唯一に近く出席していたのは、数学であった。特に受験を控えて勉強した、微積分はサボらずに出席していたのである。他の授業分は、授業をサボっている分だけ、自分で勉強した。ところが、この時期に掲載される各大学の入試問題で、解けないのは数学だけである。独学で勉強した、英語や理科、国語、社会科などは不思議なほどに解ける。そういう体験があるから、私は自分で何事もやるしかない、と思っているのである。無論、ただ単に数学が苦手であっただけという結論もあり得るが。
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昨日の最高裁判決で、私はここまで考えてみた。この問題は、実は、拙宅の育児と教育の問題に関わることだから、まだまだ考える。そもそも、これが正解、という解答のない問題だと思うからである。解答のない問題を嫌うのは、現代人・都会人である。しかし、考えようによっては、解答のない問題は、正解も不正解もないということでもある。そういう気楽さが、私にとってモノを考える原動力になっているのである。
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