日本人と「平和」−話し合い至上主義による弊害−

「平和とは、まことにはかない概念である。単に戦争の対語にすぎず、戦争のない状態を指すだけのことで、天国や浄土のような高度の次元ではない。あくまでも人間に属する。平和を維持するためには、人脂のべとつくような手練手管がいる。平和維持にはしばしば犯罪まがいのおどしや、商人が利を追うような懸命の奔走もいる。さらには複雑な方法や計算を積み重ねるために、奸悪の評判までとりかねないものである。例として、徳川家康の豊臣家処分を思えばいい。家康は三〇〇年の太平を開いたが、家康は信長や秀吉にくらべて人気が薄い。平和とはそういうものである。」(司馬遼太郎、風塵抄より)
恐らく、多くの方々、特に平和主義者の方々はこの司馬さんの言葉には違和感を覚えるかと思います。しかし、司馬さんの言葉は、実は司馬さんのオリジナルではなくて、辞書に載っていることなんです。例えば、英語でpeaceを引くとこんな感じ。
「peace (NO VIOLENCE)
freedom from war and violence, especially when people live and work together happily without disagreements」(Cambridge Advanced Learner's Dictionary:http://dictionary.cambridge.org/)」
まさに司馬さんの定義通りであるわけです。「戦争や暴力からの自由、特に人々が一緒に仲良く幸福に生活し働くさま」が平和。ですから、独裁者が作る平和も平和には違いないのです。ともすれば、日本人の多くは戦争こそ悪であると考え「平和」な状態を覆すような戦争を絶対的に否定する風潮があります。しかし、言いたいことのひとつも言えず、大統領選挙は対立候補のない信任投票という国での平和は、果たして価値のあるものなのか。それでも平和なんだから良いじゃないか、という人には別段差し上げる言葉もございませんが。
つまり平和といっても、いろんな形の平和があるわけです。先ほど申し上げたような独裁者による平和。あるいは民主主義によって互いに意見の異なる勢力が戦争を起こさず、選挙によって方針を決める形の平和。あるいは敵対する勢力同士がそれぞれ武装し、お互い角を付き合わせた格好で均衡している状態での平和。いろいろあるわけです。で、実際には国内については、独裁者または民主主義による平和、そして対外的には勢力均衡という形での平和、というのが今の世界の現状です。ところが、日本の平和主義者が主張するのは「話し合いによる」平和です。しかし、これは今のところ、どこでも実現できていないのです。そこで、彼らは「世界は遅れている。我々こそ世界最先端の平和理論である」と主張するわけです。確かに世界最先端の平和理論かも知れません。話し合いですべてを解決し、全世界が武装しない。
この解決方法は、日本人以外に論理としても通用しない部分があるのです。武装しないこと? それは違います。全員が武装しなければ、そりゃ戦争は起こらんでしょう。実は「話し合いですべてを解決する」こと。これは世界中で日本にしか通用しない論理なのです。
そもそも民主主義は、ある意味では「話し合い」とは対極に位置している概念です。民主主義とは「最終的にはお互いの意見の溝は埋まらない場合がある。その場合は多数決で決めよう」という論理です。はっきりいえば「話し合い」の否定形だと考えてもいいと思います。つまり、日本の一歩外を出れば、話し合いなんて一切通用しないのです。そもそも日本は交渉を話し合いだと思っている節がある。交渉なんて一種の恫喝の仕合なんですが。
一神教を信奉する国では、人間が考えることよりも神が考えることが絶対的に正しい、という判断をします。これは証明することすら不可能な部分です。だからこそ信仰でもあるわけです。そうすると、どういう体制を取るか。ひとつは、神から言葉を預けられた者、あるいは神から統治する権限を与えられた者による統治です。これはかつてのキリスト教国、現代でもイスラムの王国はそういう考え方によります。イスラムキリスト教も、実は同根なので、同じような統治体制が行われていたのも当然かと思います。
ヨーロッパで発展した民主主義における「多数決」の解釈は「神はできるだけ多くの者に幸福を与え給う」というところにあります。政治的な選択は、詰まるところ、各人が幸福になるための選択ということにあるわけです。神の意志は、多数決における多数派に出るであろうという解釈です。一方、イスラム教ではそういう神学論争があまり発生しなかった。この辺は、また別に解釈する必要があると思いますが、一つには中世ではキリスト教国よりもイスラム教国の方が文明度が高かったことにあると思います。それは余談。
それに対して、日本では多数決を非常に嫌います。今でも、野党側が与党による「強行採決」を「数の論理だ」という言い方で非難します。でも良く考えると、多数決自体、数の論理そのまんまであって、この非難は民主主義は認めない、と宣言しているようなものです。もともと与野党が分かれている理由は、お互い相容れない主張があるからです。その主張が真っ向対立すれば、最後は多数決しかない。これが日本以外の民主国家では普通に行われることです。ところが、日本では「議論が足りない」、つまり話し合いをもっとしろ、と少数側が主張するわけです。ま、ざっくり言ってしまうと、多数側が妥協しろ、ということでもあるわけです。これが実は日本では改革が遅々として進まない理由でもあるんですが、それはさておき。また、公党の党首を決めることについても、本来民主主義を標榜している政党であれば(日本なら自民党民主党だけですが)、党首も民主主義的に選挙で決めるべきです。どちらも300人もの国会議員を抱えている上に、党員という存在もいる。いくら同じ大方針を掲げてはいても、内部に異論を唱える人がいてもおかしくない。また、ただ単純にオレがリーダーになりたい、という人間が複数いてもおかしくないし、むしろ自然です。ですから、民主主義的に選挙をすればいいのです。ところが、かつての自民党がそうでしたし、最近では民主党は党内調整で立候補者一名、というところまで話し合いを行う(民主党には一度、民主的に決めた党首をクーデターで引き摺り下ろすという暴挙をしている。何がどう民主党なんだか)。要するに、日本人は話し合いが大好きなのです。
これは実は、神話時代から続く、日本人独特の思想です。有名な「国譲りの神話」では、アマテラスがオオクニヌシと話し合いをした結果、アマテラスが日本(現実の世界)を、オオクニヌシは黄泉の国(死後の世界)を統治するという分担ができたことになっています。ここでも話し合いです。まあ、実際には戦争だったんでしょうけど、日本人は戦争を忌避し、話し合いを至高のモノと考えているのです。つまり、神話の形成期(4世紀から5世紀)の頃にはすでに日本には「話し合い至上主義」が流布していたことを示すものと言えます。また、聖徳太子の有名な「十七条の憲法」では、わずか17条の条文の第1条と最後の第17条に、大意すると「よく話し合え。一人で決めるな。みんなが集まって話し合えば、物事は自ずから道理にかなった結論が導かれるものだ」とあります。つまり「話し合い」によって「道理にかなった」結論が導かれる、としています。しかし、よく考えたら、これはおかしいでしょう。これを理論的に保証するものは何もないのです。あくまで経験的にはいろいろあるでしょう。だけれども、話し合いで上手くいった分以上に、決裂した話し合いもあるはずです(だから戦争が起こるのだと思いますが、違いますか?)。つまり、理論的に保証できないものを信条とする、つまりは、日本人にとって「話し合い」はすでに信仰の対象になっているのです。
民主主義と「話し合い」は形態(要するに外見)が極めてよく似ています。誰も武器を持たず、一堂に会して言葉で説得する。しかし、民主主義では最終的には多数決で決めます。これは反対意見は抹殺していないことを意味するものでもあります。だから、そのときの多数派が失敗しても、次の機会にはそのときの「反対派」側によって修正が利く、という仕組みでもあるわけです。それに対して、話し合いは最終的には「全会一致」になる必要があるのですから、実はその過程で反対意見が抹殺されるということでもあります。話し合いをしてみんなが納得したのだ、という結論を導くわけですから。つまり反対者ゼロ、という状況にならなければ「話し合い」は成功したことにならないのです。
これ、どういう状況かわかりますか?
反対者がいない、すなわち野党がいない。要するに、民主主義が崩壊しているんです。形式上、議会があって民主的な運営をしているように見えるけど、反対者がいないんです。この状況、実はある時期の日本です。そう、大政翼賛会支配の議会です。独裁者がいないのに、民主主義が成り立たない。つまり「話し合い」の精神を突き詰めた結果、その「話し合い」の内部で反対意見が抹殺されてしまう体制になってしまうのです。つまり、話し合い至上主義は民主主義と真っ向対立する概念である、と述べた理由は、こういうことなのです。
しかし、それでも日本人は話し合い信仰を捨てていません。多数決という民主的な方法ですら争うことを忌み嫌います。ましてや、武器を取って戦争をするだなんてあり得ないのです。ですから、戦争の結果としての平和は認められないのです。話し合いをして平和を得る、という主張をするのは、そういう日本人特有の「話し合い至上主義」によるものです。しかし、上記したように、日本以外の国では話し合いはそれほど高い価値とは思われていません(多分、話し合いという日本語に対する英訳はないのでは)。ですから、日本人が主張する「話し合いによる平和」はいくら頑張っても、世界に広がらない。恐らく、世界の人たちは「話し合いによる平和」=「交渉による平和」と思っているでしょう。交渉を有利に進めるには、相手より強いことをわからせる、あるいは相手の弱みに付け入る、ということは当然考えるでしょうから、何だかんだいって、非武装平和論は成り立たないわけです。
ということで、日本の平和主義者の根底にあるのは「話し合い至上主義」であることを述べてきました。では、なぜ日本には「話し合い至上主義」が未だに信仰されているのか、を続いて考察してみることにしましょう。