菅直人のバカ日記

ホント、毎日止まんない。
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11/28、自民党の安倍幹事長代理にボコボコにされた報道2001への出演については、
「久しぶりに政治討論番組2001に出演。日本は薬害でも公害でも金融政策でも、行政の失敗に対して責任明確にしない。この根源は、無謀な太平洋戦争を引き起こし、日本人だけでも300万人といわれる犠牲者を出した戦前の指導者の戦争責任を、戦後の政府が曖昧にしてきたところにある。靖国問題はまず日本自身の問題として考えるべきことだ。」
と自分がボコボコにされたことをひた隠し。責任明確にしないのは、法体系が責任者を明確にしないようになっているからで、少なくとも、薬害、公害、金融政策については、貴兄のような立法府の人間の怠慢である。
次に11/29に司馬遼太郎の記述がある。
「哲学者の梅原猛氏はこの靖国神道は欧米の国家主義に影響された伝統を大きく逸脱する新しい神道であると述べられている。天皇一神教的な神として位置づけた明治の国家神道八百万の神を認めてきた伝統的神道とは明らかに異質である。」
梅原氏の指摘は、それなりに正しい。しかし、それを受けての菅氏の総括が間違っている。日本の神道は二つの柱にわかれている。一つは、自然信仰。山、岩、川、岬、木など、自然物に対して「神々しいもの」を感じることによる信仰。もう一つは、怨霊信仰で、これは殺された人による祟りを鎮めるもの。どちらも神道形式で統一されてしまっているので、その境界線がうやむやになっているだけである(ちなみに、私も後者の存在を最近まで考えていなかった)。その意味では、靖国は後者に分類されることになる。西南戦争まで日本国内で多くの戦争が起きながら、その戦死者が神道形式で祀られなかったのか(あるいはそういう例が極端に少ない)は「武士に祟りなし」という意識による。それまでは、戦闘者は身分の高低に関わらず「武士」であり、戦争によって扶持を稼ぐ人間たちだったから。ところが西南戦争戊辰戦争の官軍には、正規の武士でない人たちがたくさん参加している。だから、武士じゃない(つまり歴史的戦闘者ではない)人たちは怨霊になる可能性があるので、日本国を守ってください、と奉って信仰の対象にしたのが靖国神社ということになる。
そして、
「そしてそこから、司馬遼太郎氏の言う「鬼胎」が生まれることとなった。」
ホントに日本語読解能力があるのか。恐らく、菅氏は「この国のかたち」を読んだのだろう。確かに、そこには「鬼胎」について書かれている。靖国神道と「鬼胎」が結び付けられた記述には一切なっていない。司馬氏は「統帥権」の概念を産み出した明治憲法のスキと、その解釈を許した日本社会の曖昧さを指摘しているのだ。美濃部学説の弾圧の無意味さも確か書かれている(少なくとも他の著作で司馬氏は指摘している)。軍部が靖国神道を最大限に利用したことは確かだが、靖国神道が原因で軍部が暴走したのではない。軍部が暴走したのは、憲法に一切定義されていない「統帥権」を解釈によって生み出し、その説を世論が良しとしたことにあるのだ。
長くなるけど続けると、大正期は軍ははっきり言って差別対象だった。軍隊不要論が蔓延し、軍人を不当に蔑む風潮があった。これを不服に思った将校が2回のクーデターを行った。あれだけ軍人を蔑んでいたのに、日本人はあっさりクーデターに屈している(犯人の助命嘆願とかしてるから)。このクーデターで自信を得た軍は「たとえ文字としては書かれていなくても、過程的構造をたどれば受け取れる意味は、「表現されている」ものとして受け取らなければならない」という不思議な理論を考えて、統帥権なる「法律に明記されていない」権利を勝ち取った。あとは文民統制を失って、亡国に一直線となったことは、あえて言うまでもない。
この日記を見て、司馬遼太郎を知らない人が「菅直人が自説強化のために使ってるんだから、司馬遼太郎って大したことないんやな」と思うことが怖い。頼むから、菅氏よ、司馬遼太郎を読んでるとか、この日記に書くな。