侵略の歴史を反省しない国

と、シナは日本に対してことあるごとに言ってきていますね。少なくともここ60年、日本は海外に侵略したことはありません。行動で反省しているようなものです。では、シナはどうなんでしょう。今週号の週刊新潮に、国際基督教大学学長である中嶋嶺雄氏による「中華帝国侵略史」の後編が掲載されておりました。ここにシナの建国以来の輝かしい平和の歴史が書かれておりますので、ご紹介申し上げます。箇条書きにてまとめていますことを、ご了承下さい。(太字は引用者)

朝鮮半島
1950年6月 朝鮮戦争。このとき人民解放軍は「中国人民志願軍」として鴨緑江を越え、北朝鮮を助けて国連軍・韓国軍と戦った。1951年2月の国連総会の決議で「侵略者」の烙印を押される。
チベット
1950年 朝鮮戦争に世界の注視が向けられている最中、チベット解放という名の侵攻と占領を実施。1965年、チベット自治区成立。1959年のチベット動乱では、人民解放軍は徹底的な弾圧を加える。富裕層や地主らを公衆の面前で銃殺に処し、僧侶も撲殺、焼殺するなどして、チベット人の根絶を目指す。このとき、多くのチベット人がインドに逃れ、ダライ・ラマ14世もヒマラヤを越えて亡命する。1989年1月、中国当局が擁立したパンチェン・ラマ10世が謎の急死。この年は、チベット動乱から30年。この年の大暴動で89年3月、中国史上初めての戒厳令チベットに敷かれる。この当時のチベット自治区の最高責任者は、現国家主席胡錦涛胡錦涛チベットで徹底的な弾圧を行った功績を買われて中央に呼び戻される。このことからわかるように、胡錦涛は露骨な強硬派である。
(インド)
1950年代末期から、ヒマラヤ国境を巡って中印紛争。59年のダライ・ラマのインド亡命をきっかけに国境紛争となり、62年10月に大規模な戦闘に発展。結局、中国が一方的に撤退と停戦を表明(引用者注:要するに負けたんだな)。当時、中国側はマクマホン・ラインといわれる国境線などを越えて攻撃を加え、インド側に数千名の犠牲者が出たといわれる。
ソ連
中ソ対立が激しかった60年代から70年代にかけて中ソ衝突。62年にウイグル族など数万人がソ連に逃亡して北西部国境が緊迫。文革で反ソ主義が目立ってきた中で、69年3月には中ソ国境を流れる河川に浮かぶ島々の領有権を巡って両国が対立。珍宝島ダマンスキー島)で両軍が衝突する事件になる。
ベトナム
79年、かつてベトナム戦争で中国が支援したベトナムとの間でも戦争を起こす。この中越戦争では、カンボジアポル・ポト政権を倒して傀儡政権を立てたベトナムに対し、ポル・ポト支持の中国が制裁行動に出る。当時、来日中だった訒小平副首相は、日本の新聞に出た「ベトナム『制裁』」の文字を見て、ヒザを叩いて喜ぶ。しかし、中国軍は20万の兵力を動員してベトナムに越境しながら、ベトナム軍の抵抗にあって撤退。
(近年の国防費)
昨年も今年も12%前後。天安門事件以後、毎年二桁の数字を記録。

いかがでしたでしょうか。シナの平和を愛する気持ちが、痛いほど伝わってきますねw。