私見:日本人の神様 その2 成果を残せたはずと言ってあげる

昨日の日記で、私は日本人の宗教観として「忙しく働いて大きな成果を残した者」が神様の条件であると書きました。しかし、忙しく働いたけど、大きな成果を残さなかった者も信仰の対象になっているじゃないか、という意見はあると思います。で、事実、ありますね。忙しく働いたけど、成果を残せなかった人の典型的な例は、菅原道真でしょう。下級貴族から右大臣にまで上ったということは、忙しく働いた証拠です。しかし、彼は大きな成果を残すことなく、大宰府に流され、そこで亡くなりました。その後、都では疫病、天災に見舞われました。当時の人は、どう考えたか。というよりも、これは道真の前からある考え方ですが、忙しく働きながら何らかの掣肘によって天寿をまっとうできなかった人は、きっと現世に強い思いを残しているに違いない。もっと露骨な言い方をすると、現世に残った人に、恨みを持っているだろう、と考えていたわけです。これは要するに怨霊になるということですが、怨霊になって現世に祟られるのは適わない。(日本人の怨霊信仰については、井沢元彦氏の著作に詳しいです。特に「逆説の日本史」シリーズはオススメ)
そこで、どういうかというと、「残念ながら大きな成果を残せなかったけど、貴方は本当は大きな成果を残せたはずの方ですよ」と言う。そして、それを具体的な行動に移すとどうなるでしょう。存命中に「忙しく働き大きな成果を残した者」は、神様として祀られるのですから、「残せなかった者」も「残した者」と同じ方法で祀れば、きっと喜んでくれるだろう。「残せなかった者」も同じように神様として祀るわけです。ここで重要なのは、本人以外からの掣肘によって成果を挙げる道を立たれた、という条件です。
日本の海岸地域では、古来から漂着死体を神として祀る習慣があります。これも、漂着した人は、きっと思い残したことがあるに違いない。海に出て行くほどの大事がありながら、さぞ無念なことでしょう。戻るべき場所に戻れば、さぞ立派なお仕事が出来ただろうに、という気持ちが神として祀ることにつながって行く。
では、靖国神社はどうなんでしょう。
もうお分かりですね。国家という、個人の意思を超越した存在によって、戦争に駆り出され、悪戦苦闘の末に亡くなった。もし、戦争がなければ、きっと本人が望むような大きな成果をそれぞれの場所で挙げられていたに違いない。貴方たちは、現実の戦争では負けてしまったけど、私たちは貴方たちのことを敗者だとは思っていませんよ、国を守ってくれる「英霊」だと思っていますよ、と言っているわけです。何のことはない「怨霊にならないで下さいね」と懇願してるだけなんです。
それがおかしい、と思う人がいたら、テレビで殺された人、事故で亡くなった人に対する周囲のインタビューを見てみれば納得してもらえるでしょう。亡くなられた方を悪く言う人は、ほとんどいません。本心は悪く思っている人もいるとは思いますが、それでも口に出して悪く言う人はほとんどいないと思います。これも「成果を残せたはず」と言ってあげる方式なんですね。それを集大成としたのが、靖国神社だと思っていただければ、靖国神社の概ねがわかるんじゃないかと思います。
実は、私、靖国神社って神社のスタイルとして、少し妙だと思っていたんです。神道は本来自然崇拝だったんじゃないのか、と思っていたんですね。だから、人間信仰である靖国神社は少し違和感があったんです。実際、その旨、拙日記に書いたこともあります。違和感はあっても、別段、それを咎める気もさらさらありませんでしたが。で、靖国信仰の源流について、私なりにはこういう解釈に辿り着きました。
ただ、最後に申し上げておきます。こういう解釈をした結果、一神教よりも日本の宗教が優れているというつもりは、全くありません。宗教や信仰というのは、そもそもある一点のフィクション(虚構)から始まるものです。一神教なら「世界は造物主たる神が造りたもうた」ですし、日本宗教なら「日本人はすべて神々の子孫なり」というもの。どちらも、それを証明することすら出来ない。つまりは、フィクションなんです。そのフィクションをあれこれ論ったところで、嘘は嘘なんでそれは甲乙もヘッタクレもない。ついでに言えば、共産主義は「神などいない」というわけで、これも一神教や日本型宗教から見れば、やっぱりフィクションなんです。「神がいる」というのが正しいと思っている以上、「神がいる」側から見れば「神がいない」ということはフィクションでしかない。結局、議論は堂堂巡りになるだけなんです。
となると、解決策はやっぱり「相互不干渉」しかないわけです。お互いの実利を侵害しないレベルにおいては、お互いのフィクションを黙認する。で、同じフィクションを共有するもの同士が、仲間を作り、それが民族と呼ばれ、国を作ってきたのが、人間の歴史でもあるわけです。で、相手のフィクションが気に入らないという理由で、人間は何度も何度も戦争を起こしてきて、今でもやっているわけですね。歴史に学ぶという姿勢があれば、宗教上の理由での争いはもう止そう、と考えるはずですよね。ところが、シナ共産党政府や南朝鮮だけが、今さらになって、宗教上の理由で争いを仕掛けてきているんです。今でも宗教上の理由で対立している国はあります。イスラエルと中東諸国はその典型的な例ですね。お互いのフィクションが共有できないのなら、お互いの距離を開ければいいだけのことです。だから、イスラエルも中東諸国も、差し当たり表面上は相互依存関係がありませんね。それは信仰から来るプライドとも言っていいと思います。それなら、シナや南朝鮮は、日本のフィクションが気に入らないなら、日本と距離を開ければいいんです。何故、そういう政策を取らないのか。それは、日本がいないと困るからですね。日本に依存しているから、距離を開けられないんです。だったら黙ってくれりゃいいんですが、彼らのフィクションは「日本は悪魔」ということになっているんですね。だから、日本を罵り続けないといけない。
しかし、これも本当は歴史に学べば、わかることです。かつて、キリスト教世界は「イスラムは悪魔」と思ってましたね。だから十字軍が何度も何度も「聖地奪還」を目指して遠征したんです。何故、イスラムが悪魔だと思ったかというと、インド・アジアへの貿易通商路を海上も陸上もイスラムに抑え込まれていたからです。要するに、当時はキリスト教世界の方が、イスラム世界よりも遅れていたのです。軍事的に勝てるか、と思って遠征してみたけど、実質失敗だった。そこで、考えたのが地球を反対側に回るインド航路があれば、イスラムピンハネされなくて済むというもの。これが大航海時代の幕を上げる大きな動機になっていることは間違いないのです。つまり、シナや南朝鮮が目指すべきは、日本を罵ることではなくて、日本への経済依存度を下げることにすればいいんです。ところが、残念ながら、世界の中で日本に代わる国はそうそうないのも現実。となれば、やはり彼らのフィクションである「日本は悪魔」は排すべきだと思うんです。それが結局、彼らのためになると私は思います。