古代史ファンにはたまらん

う〜んと、今、ちょっと酒が入っていて、いい気分なので、ネット上のソースを見つけられないんですが、出張中に読んだ産経に載っていたこのニュース。
「明日香村・カヅマヤマ古墳 板石積み石室出土」(12/2産経朝刊1面)

高松塚古墳など皇族クラスの古墳が集中し、飛鳥時代の”王家の谷”とされる奈良県明日香村南西部のカヅマヤマ古墳(同村真弓、七世紀後半)で、レンガ状に石を積み上げた石室が見つかり、一日、同村教委が発表した。四世紀から七世紀にかけて朝鮮半島で栄えた百済に多く見られる「せん(石偏に専)積み石室」構造で、高貴な人物に限って使われた漆塗り木棺の破片も出土。皇族か、日本に滞在した百済の王族らが葬られた可能性が高いという。

七世紀と言えば、大化の改新壬申の乱など、皇室がらみの騒動が起きた時期でもあります。特に、私は歴史を習った頃から、壬申の乱にはすごく興味がありました。皇位を巡って、皇族同志が戦争で覇権を争った最後の事件だからです(保元平治の乱は、皇族や貴族が「武士」を使って戦争を「代行」させただけで、直接、戦争に関わっていない)。壬申の乱では、後の天武天皇、当時は大海人皇子が直接軍隊を率い、大友皇子弘文天皇)を破った戦いなのですが、学校で習う歴史では、乱が起こった理由は教えてもらえてないわけですね。
で、そこで面白かったのが、井沢元彦氏の著作「日本史の叛逆者?私説・壬申の乱」です。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4041662095/qid=1133693544/sr=8-6/ref=sr_8_xs_ap_i6_xgl14/249-0721302-6685921
天智天皇は暗殺された。その裏には、東アジアにおける政治バランスが大きく影響を与えていた、というものです。これが説得力もあり、実に面白いんですね。私は井沢説を支持する者ですが、今回発見された古墳が亡命百済王族の墓だったりすると、私は非常に面白いと思います。日本は聖徳太子の外交によって大陸と距離を置く方針が決まったとされますが、実はその後、朝鮮半島のどの国と同盟するか(百済高句麗新羅)によって、政治的な思惑があったらしい。ご興味のある方は、是非、井沢氏の上記著作をお読み下さい。
さて、その井沢氏も指摘されていることですが、壬申の乱の勝者・天武天皇には大きな謎があります。天武天皇は、没年はわかるものの、生年が日本書紀に書かれていないのです。他の資料によると、天智天皇の弟とされる天武天皇ですが、天武の兄天智の兄(12/5修正)になってしまうらしいのですね。そこで、井沢氏は、上記著作や彼のライフワークである「逆説の日本史」では、次のように述べます。
「実は、天武帝皇位の正当な継承者ではなかったのではないのか」
正当な継承者ではない。つまり、神武帝以来の男系男子ではなかった可能性があるのではないか、ということなんです。しかも、過去の天皇の一代記を集めたものとも言える「日本書紀」は、何と天武帝の妻である持統天皇(彼女は天智帝の娘でもある)の時代に編纂されたものなんですね。要するに、天武帝が「正当な皇位継承者」であることを示すために書かれたのではないか、というのが井沢氏の指摘で、私もそのように思います。
と、するとですね、普段、私が主張している「男系」による皇位継承は、天武帝のところで途絶えていることになりますね。何だ、お前が言ってることは、歴史的な事実とは違うじゃないかと仰る向きがあろうかと思います。
しかし、そのことに対しては、二つ反論できます。
一つは、現皇室は間違いなく桓武帝からの男系血統であることは、文献から見て間違いのないところですが、この桓武帝は、天武天皇の子孫ではない。天智天皇から数えて五代目(くらいだったはず。間違ってるかも)くらいの子孫になりますので、そういう意味では神武帝以来の男系継承は続いていると言えるわけです。
そして二つ目。私は、こちらの方が重要だと思っているのですが、「正当な皇位継承者」ではない可能性がある天武天皇とその妻(および子孫や関係者)が編纂した日本書紀は、天武天皇が「神武帝以来の男系継承者」であることを記したものだということです。つまり、天智系統から皇位を奪った天武王朝関係者まで「神武帝以来の男系継承者」が「正当な皇位継承者」と考えていたということなんです。
このことから考えると、歴史的日本人が「皇位継承者」の資格として、何を一番重要視していたのかが、わかるような気がしませんか?
(ちょっと酔っているので措辞がむちゃくちゃですんません)