わからんとか足りないならまだわかるが

昨日の朝日新聞の社説から引用いたします。
「終盤国会 急ぐべきものは何か」
http://www.asahi.com/paper/editorial20060524.html
内容は別段、取り立てて言うほどのことではありません。憲法改正に向けた法整備、教育基本法の改正などは、朝日が60年かかって国民を「教育」してきた成果を否定されるようなもので、納得しがたいということだと、私は読み取ります。
ま、それはさておき、最近、マスコミがよく使うのが次の言葉。

国会は集中審議などでこれをもっと正面から論議すべきだ。朝日新聞世論調査では「政府は国民への説明責任を果たしていない」とみる人が84%に達した。

最近じゃ芸能レポーターまで使ってるのを見ましたよ。どうなってんですかね。
確かに「もうこれ以上、説明すべきものはない」と主張することは、悪魔の証明に通じるところがあります。ですから、これはいかなる状況でも使える便利な言葉なんですね。
ただね、日本は民主主義で、国会などの立法機関では、多数決で採決することになっているわけです。つまり、最終的には「説明しても理解できない部分がある」ということが前提になっているんですよ。
朝日的に考えると、それは少数意見の抹殺となるかも知れません。しかし、実際はその逆なんですね。少数意見を尊重した上で、かつ、国民の最大多数の幸福を実現しようと思ったら、多数決しか論理的にはあり得ません。意見を捨てろ、とは言っていないんですね。
そもそも、社会というのは変化するものです。話をあえて横道にそらしますが、私が靖国神社を国の管理下に置くのに反対するのは、一つは今まで散々申し上げた憲法問題。もう一つは、社会の変化があります。今は、それなりに靖国神社は信仰を集めているわけですが、これが今後100〜200年くらいの長いスパンで見たときに、どのような状況になっているか、わかりません。宗教にも、言い方は悪いけど、流行り廃りがあるわけです。靖国神社を国の管理下に置く、という発想は、社会は変化しない、という前提があって成り立つわけで、これから先の将来、日本で一番勢力のある宗教がイスラム教になっている可能性は、ゼロではないのです(実際、イスラム教は今でも信者を増やしている宗教です)。
話が逸れましたが、社会は変化する。現時点では、少数意見であったとしても、将来、多くの支持を集める意見になるかも知れません。民主主義は多数決は取るけれど、その少数意見を述べた人を排除するわけではない。
無論、説明は不要である、と言っているわけではない。ただ、説明責任を果たしていない、という言い分は「その説明では納得できない」と言っているのか「その説明は理解できない」と言っているのかが、不明だと申し上げているんです。納得できない、という場合なら、対案が出てくるはずです(現状維持も一つの対案)。そういう前提、論理では納得できない。だから、このようにすべきだ、と言えるわけです。理解できない、という場合なら、もっとわかりやすく説明してくれ。使っている言葉がややこしすぎる、と言えます。そう言われれば、説明する側も対策の立てようがあるというものです。
また、「説明責任が足りない」とメディアが堂々というのは、メディア自身の無策・無能とも言えます。メディアがきちんと、国民が必要とする情報を引き出せていないことの証でもあります。本来、こういう世論調査が出たら、自分たちの無能を恥じた方がよいと思いますね。