契約が下手な日本人

日本人がヘタクソな、あるいは嫌いなものに「契約」があります。で、最近、新聞を賑わせている(テレビはW杯サッカー以外見ていないので知りません)ニュースが、日本人の「契約下手」「契約嫌い」の体質を見事に表しています。
それが、日銀総裁村上ファンド投資問題の話。
結論を言えば、福井総裁は何ら法にも内規にも触れていないので、辞任の必要は全くありません。しかし、木走社長(id:kibashiri)のように「道義的責任」とか「ノブレス・オブリージュ」とかいう言葉で、辞任を迫る人がたくさんおられる。ここはアンチマスコミの木走社長もマスコミも同じスタンスですね。日銀総裁の務め及び禁止事項については、法や内規に書かれている。つまり、この法や内規が「契約」に相当するわけです。その契約内容に書かれていないことをあれこれ言われたところで、辞任する必要も何もありません。(コメント欄のご指摘を受け、取り消し線により訂正させて頂きます。6.23 18:00追記)
で、こんなことを書くと「日銀総裁の禁止事項に殺人は入っていない。だから殺人をしても辞任しなくていいのか」という人が出てくるでしょう。まあ、極端すぎる話ですけどね。でもね、この場合は、日銀総裁である前の日本国民(あるいは日本国内居住者)として守るべき契約、つまり刑法などに違反しているので、まずそこでお縄ですね。で、お縄になると、当然、日銀総裁の職務は遂行できない。だから、辞任するしかないわけですね。だけど、投資ファンドに資金運用を委ねることは、別段、国民がやってはいけないことではない。ただ、日銀総裁がやっていいのか、という話はある。しかし、現行の日銀総裁就任に関する「契約」の中には、ファンドへの投資は禁止されていなかった。
さあ、ここから日本人が「斜め上」の行動を取るんです。普段、日本人が「斜め上」を使う相手は別にいますが、契約社会から見たら、これまた「斜め上」なんですよ。
普通なら、日銀総裁就任に関する「契約」に不備があったから、その契約内容を見直しましょう、という議論になるはずです。当たり前ですが、ここではすでに去就は問題にすらならない。そんなの総裁側が「契約内容通り」と言えば、誰も何も言いません。その代わり、今後は契約内容を見直しますよ、と。それを、然るべき機関(国会かも知れないし、日銀内部かも知れない)が決定し、再度、総裁に提示する。新しい契約内容はこれこれである。これに同意するかしないか。それだけのことで解決します。
しかし、日本人は契約内容の見直しもそれなりにはやっているけど、契約を履行した総裁に「道義的責任を取って辞職しろ」と迫る。どう考えても契約不履行は「辞職しろ」という側じゃないですか。契約を守らない側が、むしろ堂々としている。実は、これって外国人が最も日本人を不気味に感じる瞬間なんじゃないでしょうかね。私なら、村上ファンド日銀総裁が投資していたことは、何の「道義的責任」があるのか、さっぱり理解できません。つまり、道義なんてものは、人によって違うんですから、こんなものを理由に公職(厳密には日銀総裁は公職ではないんですが)からの辞職を迫るなんて、おかしな話なんですよ。
はい、頭の回転の速い方は、この議論と同じ構造を持った問題の存在に気が付きましたね。
そう、「靖国問題」です。
靖国問題に対する「契約書」は、日本国憲法です。まず、日本国憲法の第13条は次のように書かれています。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

まず、国民の権利は個人に与えられるものであることとされています。よく覚えておいて下さい。私、公、はでてきていない。個人、という言葉のみ出てきています。
さて、日本国憲法第20条に、信教の自由に関する条項が書かれています。

第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

よく読んで下さいね。何人に対しても、つまり日本国民なら誰にでも、ということが書かれていますね。首相や閣僚、国会議員や裁判官、役場の職員は、信教の自由を停止する、と書かれていませんね。ですから、首相の靖国神社参拝は、首相を含む日本国民と国との契約上、なんら問題がないということなんですね。
ですから、首相に靖国神社参拝を止めろ、と言うのは、その発言自体が日本国憲法という日本国民と国との契約を履行していないことになるんですよ。
靖国参拝について靖国参拝反対派ができることは、靖国神社に参拝しないという信念を持つ人を次期首相に選ぼうとすることだけです。つまり、
靖国神社に参拝するかしないかは、個人の自由の範疇である。だから、これ自体は批判しない。しかし、A級戦犯という犯罪者を祀っている靖国神社に参拝するような人物を、首相にすることは、諸外国との関係において非常に問題が多く、日本国民に不利益を与えることが予想される。だから、私は次期首相には靖国神社に参拝しない人を選ぶ」
ということだけなんです。大事なのは、最初の一文をきちんと明言するかどうか、です。これを言えれば、とりあえず日本国憲法という「契約書」の内容には違反していない。まあ、上記の例は私の本意じゃないですよ。そもそも、「A級戦犯」はすでに犯罪者じゃないし、靖国神社の参拝を止めることの方が、諸外国との関係を悪化させると思いますのでね。
で、ついでなのでダメな主張の例を挙げておきましょう。まず、靖国参拝反対派。
靖国神社参拝については、A級戦犯が祀ってあることで、中国や韓国が反発している。だから、靖国神社参拝は彼らの心情を逆撫でするものであり、それを考えれば近隣諸国との友好のためにも参拝すべきではない」
これは、シナ共産党政府や南朝鮮言論の自由がないということを無視しているところが問題です。アメリカが基本的に「不介入」なのは内政不干渉の原則とかではなく、信教の自由に関わる部分を、国が統一できないからなんですね。つまり、アメリカには靖国参拝に理解を示す人もいれば、ハイド議員のように嫌悪感を持つ人もいるということで、それゆえアメリカが公式に表明できることは「日本の国内問題なので、干渉しませんよ」というだけのことなんです。ところが、シナ共産党政府や南朝鮮政府が公的に靖国参拝を批判できるということは、裏を返せば、その国に信教や言論の自由がない、ということであって、これを自由民主主義国家の人間が受け入れてはいけないんですね(共産主義者社会主義者なら仕方ないけど)。だから、シナ共産党政府や南朝鮮が反発しているから、という理由は出してはいけないんです。
で、靖国参拝賛成派にもダメな例。
靖国神社参拝は、国家のために亡くなった人を悼む行為であり、これは日本国首相としては義務としてやらなければならない」
これも、信教の自由を奪う行為ですので、首相の義務にしてはいけませんね。
ま、話が靖国問題にまで散逸してしまったんですが、要するに問題はルール、つまり契約をどのように考えるか、ということなんです。日本ではしばしばルールが無視され、世間(世論なんていうと高尚に聞こえるが実態は世間でしょう)の「圧力」が物事の決定権を握ります。一瞬、民主的な社会に見えますが、実は民主社会とセットになっている法治社会の方が抜け落ちてるんですよね。要するに、マスコミが「世論」を騙ることによる社会的制裁であり、的確な表現を使えば「リンチ」です。これはこれで結構怖い社会だと思いますが、いかがでしょうかね。