引き際の大事

竹中総務大臣が、小泉首相退陣とともに大臣だけでなく、参院議員も辞任するのだという。その辞意に対し、与野党の議員から「辞めるとは無責任なり」と批判が出ているらしい。そう、新聞では書いてある。残念ながら、テレビのニュース番組はほとんど見ないので、今のところこのニュースには接していない。このニュースで思ったのは、竹中氏というのはそれなりに歴史を知っている、あるいは勉強したことがあるのだな、ということである。
江戸時代は、各大名家は概ね、揃いも揃って殿様というのは馬鹿とマヌケの巣窟であった。実際にお家を切り盛りしていたのは、家老以下家来衆ということになるが、これまた家来衆の中が門閥制であったがゆえに、これまた馬鹿とマヌケが集まる。こんなことを繰り返していると、制度的に疲労が起きる。殿様のお家というのは、天皇家と違って男子万世一系という原則はないから、普通に養子を取る。この養子大名に優秀な人材がたまにいる。名君の誉れ高い上杉鷹山公も養子である。こういう優秀な養子大名が、藩政を改革する。その際に、藩主自ら政治をするわけに行かないから、側近要職門閥と無関係な人材を拾い上げる。そして、その多くは藩財政を改革している。こうした人材はいわば「筋目」ではない。ゆえに、周囲のやっかみを買うことになる。また、藩主の覚えめでたきを良いことに、自ら蓄財し、それによって失脚することもある。無論、これは藩だけではない。江戸幕府で言えば、歴史の教科書では悪玉扱いされている田沼意次も同じパターンであろう。
竹中氏は、自らがこのパターンになることが明らかにわかっていたのであろう。一時期はマスコミから「ポスト小泉」の一人とまで言われた。そういう評判を立てられたときが、恐らく竹中氏が「議員辞職」という決断をしたのではないかと推測する。無論、推測でしかないが。竹中氏は典型的な非「筋目」であり、財政すなわち「カネ」に関わってきた。小泉執行部は彼に参院議員という名の「筋目」を与えたが、それでも彼は自民党内の門閥から白い目で見られ続けた。
竹中氏の功罪についてはおく。というよりも、私にはよくわからない。そもそも、扱っているカネの桁が私が使い得る範囲を明らかに逸脱しており、正直なところ、勤務している会社が倒産しなければよい、と思っている程度である。郵政民営化に私が賛成したのは、上記の理由からである。ちなみに、我が家は、一応、島根県の山奥にわずかながら田地・山林がある。米と野菜と筍くらいは取れる。だから、もっと極論を言えば、貧乏すれば食うに困らない。だから、正直なところ、政府がどうこう言うカネの使い方に関して言えば、できるだけ政府が関与すべきでない、とだけ考えている。私は根っこでは都会の人間ではないのである。
話が逸れた。ともかく、竹中氏の功罪はわからぬ。ただ、竹中氏にしてみれば、小泉首相という「藩主」が去れば、与党内で言いように扱われることはない。そもそも、財政・経済の運営面において言えば、小泉路線とは竹中氏の考えたことであった。そして、今、自民党総裁の候補は皆、小泉路線を継承しない旨を公言している。竹中氏が辞職するという選択肢は、当たり前すぎる気がする。キレイ・キタナイの問題ではない。
マスコミや与野党でこの5年、冷や飯を食ってきた人々にとって、竹中氏の辞職は無念なのである。国会議員という立場にあれば、その責任を公に問える。しかし、竹中氏に議員を辞職されてしまえば、その振り上げた拳を落とせなくなる。竹中氏が今後、どういう職に就くかは知らぬが、恐らく公職には就くまい。そうなると、面と向かって文句は言えぬ。それが悔しいのであろうと思う。そもそも、不祥事を起こしても議員を辞めない人を囲っている政党が、自らの職務は終わったとして、比例区の議員が辞職することを批判するのは、筋が通っていないように思う。
かように、人間引き際が難しい。そう思う。何も役職に就き、そこから退くだけの話ではない。昔の人間は、隠居をした。上手に世間に迷惑をかけず、静かに暮らす。今では隠居は死語であろう。そもそも社会が、年寄りをどんどん働かせようとする。隠居させない社会を作ろうとしている。それは果たして理想の姿か。
年寄りが仕事をいつまでも続ける。今の日本に足りないものがあるか。さらに言えば、経済がいわゆるグローバル化して、もう何十年にもなろう。要するに、世界規模で見ても、これ以上、市場が今の10倍になったりすることはない。つまりは、日本のように先進国と言われる国であれば、間違いなく仕事がこれから増えるようなことはないと思う。そこに、老人が仕事に残り続けるとどうなるか。当たり前だが、若者に仕事が回ってこない。仕事が回ってこないが、老齢化した自分の親は働いているから金がある。つまりは、若者が働かなくても食える。これがニートの実態であろう。老人が隠居し、仕事から退いてやれば、基本的にニートの問題は解決するはずである。
私の父は、54歳で定年まで6年残して退職した。それ以来、晴れの日は畑を耕し、雨の日は読書をするという隠居生活を送っている。若い頃に家を買わず、ひたすら借家住まいをしてきた。退職金で、老夫婦二人が暮らせるだけの家を買い、隠居している。同じ市内に私の姉の夫婦が住んでおり、たまに家を行き交いして孫の世話を見る。それ以上、何の幸せが老夫婦に必要か。これは父の言葉である。旅行は、拙宅が滋賀にあるため、年に1回か2回、新幹線に乗る。それで十分だという。旅行は若いうちに、お前たちを連れて行った。海外旅行? そんなものはしなくてもいい。今の若い者は、海外旅行に行けばいい。自分は若い頃はそんなものは高嶺の花で、日本が世界で経済的に強くなった頃には、隠居する年になった。それはそれで仕方がない。老いて旅に出るは、迷惑になるだけであろう。父はそういう。そういう父を私は甚だ尊敬する。こういう父の世代が、今の日本の繁栄を築き、若くして海外旅行だの外食を常時楽しめる社会を作ってくれたのだと思えば、感謝し、頭を垂れる以外にない。
ところが、世はそういう老人は少ないらしい。今の若者と同じような生活をしたい。そう思っている人が多いようである。まして、今や「アンチエイジング」である。老いることが罪であるような錯覚が与えられているように思える。元気な年寄りが素晴らしい。そうだろうか。私は疑問に思う。報道がすべてとは思わぬが、若者の事件と並んで目立つのが、老人が起こす事件である。しかも、男女の問題に絡む事件が多い。60を過ぎてなお盛んなのか。そこが気になる。私の妻は、病院で事務員をしていたが、バイアグラを処方されに来るのは、たいてい老人らしい。バイアグラは本来、機能不全に悩む若年男性に対するものではなかったのか。それは私の誤解か。
老人が老いないから、少年少女層が幼くないのであろう。要するに、社会全体が20〜30歳までの人間こそ最も素晴らしい。そう思っているのであろう。だから、老い枯れているはずの老人も、まだ花も咲いていないような青少年も、男女のことで事件を起こす。
つまりは、社会が多様化しているようで、どんどん一極化しているのである。その多くが目指す一極化に乗り遅れた人を「負け組」と称し、二極化・格差社会と言えば一丁上がりであろう。その一極は、大量の金をわずかなモノに消費し、派手な人間関係を演じ続ける人のことである。要するにそれは、世間を知らぬ若者の行動である。そのような生活をする人を特集し、誉めそやす番組もある。それはそれで面白さを否定はしない。しかし、それを持って「勝ち組」としているのは、他ならぬ「格差社会」を批判するマスコミであろう。それなら私は別に「負け組」で構わぬ。イノシシに食われる前に筍を掘り当てる能力ならば、私は多くの日本人の中では「出来る方」に入る自信がある。その方向ならば「勝ち組」であろう。大学時代、大学の敷地内にある竹薮に筍が出るというので、事務員が掘るという。私も誘われたので参加した。ところが、参加者が皆、地面に頭がスーパーで売っている程度見えている筍を鍬で刈っているのを見て愕然とした。私は足の裏で、地面にある下草を払いながら、わずか地面に見えているか見えていないかくらいの隆起を見つける。その周りの土を、丁寧に鍬で掘ると中に、あのスーパーで売っている大きさの筍が「埋まっている」。だから、私が参加した年は、事務員のオバチャンたちが皆、口をそろえて「今年の筍は美味しい」と言った。そうではない。それまで食っていたものが、とても食える代物じゃなかったのである。それは余談である。
ともかく、私のコジツケで考えれば、老人が上手く隠居しなくなったことが、今の日本社会の問題の根源である。「老い」を認めなくなった社会が否定したのは、今度は「若さ」や「幼さ」であろう。そこにニートの問題や、少子化の問題が連なる。つまりは、人間の引き際の問題が、少子化の問題になっていると、私は考える。
以上は、養老孟司氏の著作の受け売りである。しかし、内容は自分の父と周囲の老人を見てみれば、十分に納得できる話なのである。それもこれも、都会で金を稼ぐ田舎者の僻目と思われるのであろうが。