それよりは日教組解体を

伊吹文明文科相が、小学校の英語教育は不要との見解を示したそうである。はなはだ正論であると思うので、その件で長文を書こうと思ったが、以前、書いたような気がした。自らの日記を検索してみると、案の定、書いていた。
「■[社会] 小学校から英語教育?」
http://d.hatena.ne.jp/sanhao_82/20060330
読み返してみて、意見を修正すべき点がなかったので、もう書かない。ただ、伊吹大臣は「美しい日本語が」どうたらこうたら、と述べたらしい。「美しい」は余計である。どういう言葉、文章が美しいか。これは人によって判断が分かれるはずである。
それよりは、普遍的な文章を繰り返し、真似することが大事であろう。そう思う。学ぶとは、真似することであろう。独創的なことが大事。日教組はそういうかも知れぬ。しかし、独創性も何も、学習とはできる者の物真似から始まるはずである。日教組の教師は、子育てをしたことはないのかしらと思う。愚息は、妻が書いた数字の「2」を必死になって真似している。「3」はまだ書けぬらしいが、「2」は真似できるようになって、得意満面である。別にこれは文章に限ったことではあるまい。繰り返し、真似して練習する。これ以外に学習方法はない。真似ることがなくなった人間が、やっと「独創性」などを考えればよい。
そもそも、小学校で英語教育、などと言い出したのは、朝日新聞である。裏を考えていけば、日教組の教師が出所であることは、簡単に想像できる。彼らは「英語は国際標準語」という。そのくせ、反米である。それでいて、親シナである。親シナであるならば、日本語を徹底的に学び、漢字を山のように覚え、かつての武家の子弟のように漢籍を読む方がよいと思う。基本的に、シナ大陸は筆談の国である。私の妻は、シナ語学科卒業だが、道端でシナ人が会話をしていても、7割方はわからないという。それは妻がボンクラか。そうではない。これでも妻は1年、上海に留学していた。また、私たち夫婦の新婚旅行で、リスボンの中華料理店に入った際、店主夫妻がシナ人で、彼らとシナ語で会話をしていた。シナという国は、一山越えると、話し言葉は通じない可能性がある。だから、漢字があれば理解し合えるようになっている。これはこれで便利である。ならば、日教組朝日新聞が「英語教育」を提唱するのは、妙に思える。
しかし、何のことはない。これは小学校教師の仕事を楽にすること、そして教員の採用枠の確保(つまりは日教組構成員の確保)である。中学以降は、基本的に教師は学科制である。しかし、小学校の教師はクラス制である。一日中、同じ生徒を相手にしなければならない。それが負担なのであろう。小学校で例えば、週に3日でも英語を教えれば、そのコマ分だけ、小学校教師の負担が減る。また、小学校で英語を教えておけば、中学・高校の英語教師も楽ができる。基本はできた生徒が入ってくるからである。そう思っているに違いない。相変わらず、日教組というのは教員の風上にも置けぬ存在である。
上で、学ぶとは真似ることだと言った。では、学校の児童生徒が真似る対象は誰か。両親と学校の教師であろう。真似されるべき教師が「独創性が大事」というのは、大いに矛盾していると思う。オレを真似しろ。それが教師の立場である。ところが、そう思っていない教師が多いのであろう。教科書に書いてある内容を教えるのが、教師だと思っている。だから、教科書が問題になるし、そう考える教師の言うことを役人がまともだと考えるから、教科書を検定するような愚を犯す。教師が自分に自信があれば、例えば扶桑社の歴史教科書を手にして「こことここは黒線を引け。この教科書が間違っている。オレが言っていることが正しい」と言えばいいだけの話ではないか。自分が経験し、やってきたことよりも、他人が書いた教科書を信じるのか。そんな自信のない教師の集団が日教組であり、彼らの主義主張を垂れ流すのが朝日新聞である。自分を見ろ、自分を真似ろ。その自信があれば、教科書が何を言おうと関係がない。教科書を問題にしたり、独創性・個性重視と叫ぶ教師は、自らに自信がないことを曝け出していることに気が付いていないのであろう。そして、「オレが正しい」と主張するのが、卒業式での日の丸・君が代拒否か。個性重視という教師の個性が、所詮、こんなものなのである。
そもそも、日教組の構成員のほとんどを占めるであろう、公立学校の教員は、誰がどう見ても公務員である。この公務員が、労組を組織している。しかし、公務員は法的に労働組合の結成は認められない、と私は学校で習った。それは、彼らの給与の決められ方と、民間企業の労働者の給与の決められ方との違いにある。民間企業の労働者は、自ら給与を決定する権利を持たない。それゆえ、使用者に対し、労働者が団結し、団体として交渉することを法的に権利で認めた。これが基本的に労働組合であろう。しかし、公務員の給与は、基本的に議会によって決められる。この議会は、民主的な選挙によって選出された議員で構成されている。つまり、ここに一市民・一国民として、公務員自身が給与を決定することに対し、意思表示ができる仕組になっている。また、団体交渉・団結を認めない代わりに、公務員は基本的に解雇されない。そもそも、自治体が倒産するということは、財政的にはあり得ても、本質的にはあり得ない。
日本では、日教組他の官公労は、連合の傘下に入っている。甚だこれは矛盾である。どう見ても、民間企業の労働者と公務員の利益は、最終的には一致しないはずである。何故なら、公務員は労働者の税金が給与の原資になっているからである。民間の労働者にとって、社会政治活動の第一目標は、減税である。つまりは、公務員を削減しろ、公務員に無駄な仕事をさせるな、ということである。これは明らかに、公務員の利益を侵害している。
また、日教組が提唱してきた、個性重視教育だのゆとり教育だのも、民間企業の利益に合致しない。民間企業は、できるだけ優秀な社員を欲する。20年前は東大卒でなければあり得なかった能力が、高卒者でも普通にできる。これは極端なのかも知れないが、質が高い学生が出てくることを社会は望む。しかし、ゆとり教育とは、以前よりも無能な若者を量産することである。そこに個性重視か。無秩序と無能の量産ではないか。つまりは、日教組の利益と社会の利益は、結果的に相反するのである。なのに、民間企業の労働者の団体である連合に入っている。これは追い出さない連合もおかしいが。
ちなみに、日本の官公労は、国際労働機関(ILO)から「労働組合」として認知されていない。毎年、彼らはILOに嘆願しているらしいが、ILOは認めない。世界の常識から考えて、公職にあるものの労組は、理論的にあり得ないということである。
伊吹大臣に提案したい。「美しい日本語」とか、どうも安倍政権はやたら「美しい」という癖があるように思う。それは止めて頂きたい。それはそれとして、まず最初に日教組を解体してはいかがだろう。そもそも自民党の支持母体ではないのだから、懐も痛まぬ話ではないか。