民主党は「民主主義」を否定している

かなり立腹している。いや、わかっている人にはとっくにわかっていたと思うが、最近、朝刊は一日遅れ、テレビのニュースはほとんど見ない、という生活をしていたので、さっぱりわからなかっただけだと思う。
昨日、沖縄県知事選挙の投開票が行われた。与党候補が勝ったとのことだが、そんなことよりも、このニュースの映像を見て驚いた。何と、野党の女性候補の後ろに、菅直人福島瑞穂と名前は失念したが共産党の幹部が並んでいたのである。これで、昨今の民主党の国会「戦術」が理解できた。だから、腹を立てているのである。
民主党は、教育基本法の改正案について、独自の案を出していた。マスコミや保守系の評論家からは、この民主党案の方が、政府・与党案よりも出来が良い、と言われていた。しかし、民主党は独自案を出しながら、審議拒否という手段に出たと聞いた。
つまりは、この民主党案はあくまで有権者に対する「疑似餌」なのである。そもそも、保守系の評論家から評価される案ということは、すなわち民主党内の左派(旧社会党系)や社民党共産党からは評判が悪い、ということである。そこまではよい。しかし、沖縄県知事選挙では、何としても与党候補を破りたい。そこで、野党共闘である。それはそれでよいのである。しかし、この野党共闘のために、民主党は自らの案を審議しなかったのである。
「疑似餌」と呼んだのは、そもそも民主党には、この独自案を審議にかけるつもりがもともとなかった、ということなのである。審議にかかってしまうと、沖縄知事選での共闘もできないし、そもそもこの法案自体、党内で民主的な手続きでコンセンサスが得られているわけではない。有権者には、色よい案を提示しておいて、裏では野党共闘のために審議をしない理由を見つける。タウンミーティングの「やらせ」問題は、その格好の餌食であっただけである。だいたい、ああいう「やらせ」などマスコミの常套手段ではなかったか。いや、常套手段だからこそ、マスコミとそれと共闘する民主党は、見抜いた上で、タイミングを見計らっていた。そう私は考える。自分もやっていることを他人がやると、実は簡単に見破れるものなのであろう。今だから白状するが、私は学部生時代、極めて劣悪な学生で、多くの非必修講義には一切出席せず、テスト当日にカンニングした。だから、大学院に進学し、試験監督補助を依頼されたとき、試験を受ける学生に対し、私はカンニングのプロだから、キミたちがやる手段はだいたいお見通しである。ゆえに、私にチャレンジする気のある者は、カンニングしたまえ。そう宣言した。その結果、その試験科目は例年になく点数が下がり、教授が首を傾げていた。それは余談である。
民主党が、こうした手段に出られるのは、実は党内の「非民主的」な体質にある。私はそう考える。自民党は、この後、また後戻りするかも知れないが、とりあえず、それまでの「全会一致」「長に一任」という体質を、昨年8月の選挙で拭い去った。自由「民主」党の看板にあわせ、議論と多数決という民主的な手段に切り替えた。ところが、民主党は相変わらず「執行部一任」という形が極めて多い。だから、責任はすべて執行部にある。そう民主党の議員は考えているように見える。民主党の案、と大手を振って出しながら、それは執行部の裁量次第で審議しなくてもいい。それは、その案自体に、党内の民主的な手続きによるコンセンサスが形成されていないためである。それが「民主」党と名乗る。そこに、私は極めて矛盾を感じるのである。
今回の沖縄知事選で、野党共闘候補が負けたのは、そういう意味で当然なのである。沖縄県民の多くは、民主主義者なのである。民主を名乗る政党が、民主主義を否定する政党と連携を組み、知事選のために国会という国権の最高機関での審議を拒否するという、非民主的な行為に対し、反対したのであろう。私はそう解釈する。
私が日本の政治に対し、一番悲しんでいる点は、民主主義の枠の中で、政策を論じているのではなく、民主主義と非民主主義を問うような議論が行われている点なのである。政権批判のためには、民主主義すら捨てるような政党が存在していることが、極めて不幸だと思う。民主主義自体は、人類の歴史上、それほど古くはないし、完璧な制度とも思わない。しかし、チャーチルが言ったように、過去に試されたどの政治体制よりは、優れていると私は思うし、それは常識に属するものだと私は考える。民主党の面々は、一体、どのように考えているのだろうか。