言葉だけが表現ではない

それにしても鬱陶しい。何が鬱陶しいかというと、テレビである。スポーツ中継ですら、最近は鬱陶しい。画面に所狭しと、字幕がやたらめったら出てくる。最近では、ゴルフの中継ですら、画面の右上や左上に「藍ちゃん、猛チャージ」とか「タイガー連覇へ!」とか意味のわからないことが書いてある。そんなことをイチイチ書く必要があるのか。この手の「字幕」(テロップというらしい)が最も激しいのが、お笑い番組であろう。タレントが喋ったことが、そのまま字幕になっている。
特にお笑い番組の「字幕」には、正直ウンザリする。確かに面白いことを言っているとは思う。しかし、最近のいわゆる「芸人」は、ほとんどが「文字」になること、つまりは言葉の使い手でなければ、売れていないということであろうと思う。
私が小さい頃、お笑い番組の頂点は、ドリフターズの「8時だよ!全員集合!」であったし、欽ちゃんも全盛期であった。また、その後は、ビートたけしの「元気が出るテレビ」であり、「お笑いウルトラクイズ」であった。また、漫才といえば、横山やすし・西川きよし、が大好きであったし、今でも吉本新喜劇は大ファンである。よく考えてみると、これらの番組にはどうやっても字幕は不要である。というよりも、付けることが出来ない。ドリフのコントは、言葉の芸ではない。完全に体による表現である。志村けん加藤茶は、ドリフの中ではまだどちらかと言えば、言葉の芸を担当する方であり、仲本工事高木ブーは完全に体の芸であった。長さんは、それを統括する立場だったが、生放送中に想定外のことが起きても、それを収拾する達人であった。また、「元気が出るテレビ」の高田純次の企画モノなど、言葉で表現したら、何の面白さもない。見なければわからない。そういう芸であった(高田純次は今でもそうであると思う。言葉も十分面白いが)。やすきよの漫才も、言葉以上に体の芸である。そりゃ、やっさんのメガネも飛ぶっちゅうねん。
ところが、今はそうした芸は、すべて言葉になっている。今頃の芸人さんは、体を動かしても面白くない。モノマネなどは上手いかも知れないが、誰もが普通にやっている行動をデフォルメして、面白く表現するという芸をやっている芸人が少ないように思う。若手で言えば、中川家ぐらいか。
もともとテレビは、動くモノを見られる、というところが最大の魅力であったはずである。ところが、最近のバラエティ番組といえば、決まってトークショーである。それならラジオで十分である。というよりも、ラジオは「動き」を見せられないことを知っているから、話し手がテレビのそれよりも格段に上である。私は、ラジオのファンだから、余計にテレビの中途半端な言語化に鬱陶しさを感じる。
当然のことながら、こうしたことは社会の世相を反映していると見てよいと思う。要するに、社会自体が極端に言語化しているのである。言語で説明すれば、相手は理解する。逆に言えば、体の表現を理解しない。だから、説明責任、などという「造語」が生まれたのであろう。私なんか、説明されたってわからない。やってみなけりゃわからない。本気でそう思っている。相手の言うことも、そう思って聞く。自分が話すときにも、そう思って話す。おかしいと思うなら、自分でやってみろ。今は、そんなことを言えば、たちまち怒られる。だから説明しろ、ですか。やってられないと思うのは私だけか。
お笑い番組は、もともとは子供がターゲットであったはずである。そのお笑い番組ですら、完全に言語化した。これは、お笑い番組がターゲットを「言語の使い手」である大人に変更したということでもある。かといって、子供が見るべき番組を他に提供しているわけではない。となると、テレビを見る子供はどうなるか。テレビを見る時間は、教科書を読んでいる時間よりも長いことを考えれば、テレビの影響は極めて大きいはずである。テレビで完全に「言語の使い手」が評価されていることを考えれば、言語表現の不得手な子供が、その割を食うことになるのではないかと思う。昨今、問題になっている「いじめ」には、そういう背景がないか。そもそも、大人の方が「子供は明るく元気良くハキハキと」と思い込んでいる。ハキハキと、というのは、言語表現の上手な子の場合であって、それが苦手な子供だっているはずである。
こうして社会が言語化するから、学歴信仰なるものが出てくると私は判断する。入試というのは、要するに言語表現能力のテストである。東大は、言語表現能力の優秀なる者の選抜であって、別に身体表現能力の高いものが集まっているわけではない。それが故に、東大が強豪であるスポーツは聞いたことがない。じゃ、早稲田や慶応とかだって言語能力が高い学校なのに、ラグビーが強いじゃないか。出身の学校を良く見てくださいな。もともとがラグビーの強豪校の出身者の選抜ですよ、今じゃ。
そのことが典型的に出たのが、サッカーW杯の中田であろうと思う。私は、中田は個人的には評価もするし、日本サッカー史上最も優秀な選手であると思う。しかし、彼は徹底的に言語を重視したのではないかと思う。彼は仲間に議論を求めた。ところが、彼らの仲間はプロスポーツ選手という、身体表現者であり、言語表現者ではなかった。中田は偶然、この両方の能力を持ち合わせていただけである。だから、彼はチームと事あるごとに対立したし、ジーコとも対立した。ジーコは、恐らく、サッカーは言語化するものではない、と思っていたはずである。しかし、ジーコ自身が身体表現者であり、言語表現者ではない。言語至上主義の日本で、ジーコが最後に罵倒されたのも、私はそういう意味では理解する。
江戸時代は、身分制度社会だが、抜け道が二つあった。一つは、言語表現の達人になることである。つまりは、学問であり、儒者になったり、医者になることであった。そして、もう一つは、身体表現のの達人になることである。剣術、槍術、柔術、相撲、茶道、などである。こういう身体表現の大事さは、我々の祖父の代までは、普通に認識されていたことであろうと思う。こうした身体表現は、実は日頃の立ち居振舞に影響する。その立ち居振舞は、一般的に家で伝承されるものとなる。これが、左がかった民主的な戦後教育にとって、敵視すべき「伝統」であったことを私は疑わない。こういう教育を推進した世代の方が、かつて「受け継ぐだけでは伝統にならない。常に時代に合わせた変化が必要である」などと嘯いていたが、変化したら伝統ではないような気がする。要するに、戦後において伝統に価値を置かなくなった背景が、実は社会の徹底的な言語化であろうと、私は考える。
どこかの新聞ではないが、言葉は力、というのは事実である。言葉は、確かに表現方法として極めて有力である。しかし、それと同時に、表現手段としての体をもう一度、見直す必要があるはずである。教育問題を語る人の会議が、ひたすら言語能力の達者な人たちで構成されているが、これでは解決にならない。学力向上を語るのであれば、まずまずの人選かも知れぬが。もし、私が教育再生会議とやらを主催するとすれば、言語能力者は養老孟司と斉藤孝だけでいい。そして、メンバーにはビートたけし西川きよし、剣道で八段の段位を持つ者1名、茶道・華道の家元、宝塚歌劇団出身の女優(そういう意味で、私は天海祐希を入れるべきで、別に「女王の教室」の主演だから、という理由にしなければよかった)、歌舞伎役者、相撲のお偉方で構成し、体の表現について考える方が、有益であろうと思う。
子供の問題の一つの側面が、言語表現の豊かではない人間を社会がどのように受け入れるか、という問題でもあるし、体の表現を社会がどう受け入れるか、という問題でもあるのである。少子化や、親子間の殺人事件の背景が、実は言語能力が未熟、あるいは苦手な子供を、徹底的に言語化した社会が阻害していることに起因しているのではないか、と私は危惧しているのである。