美しい国にはほど遠い

何度か書いているように、私は通勤時間が長い。つまりは、電車に乗っている時間が大変長いわけである。また、新幹線で出張することも多いから、電車に乗るのが仕事のようなものである。
安倍首相や自民党が提唱している「美しい国」というのは、一体どういうことなのか、私にはよくわからないが、普通、美しいとは見目麗しきことを差すように思う。美人、美形、美容、などは、そういうことであろう。ところが、電車の車内は全く見目麗しくない。最近目立つのは、電車内にゴミが放置されていることである。
まずは、電車内にゴミを放置したまま下車する神経が理解できない。ひどいのになると、飲みかけの缶ビールを放置している。全く、了見がわからない。もしかしたら、次に座った人にご馳走でもするつもりか。
私は子供に、飴やチーズなどの食品の包み紙は、すぐにゴミ箱に捨てるように躾けている。これは別段、珍しいことではないはずである。その結果、3歳の長男は私が出した紙屑ですら、ゴミ箱に捨てる。電車内にゴミを放置する人間は、3歳児よりも程度が低いと思わざるを得ない。
もう一つ気になるのは、こうしたゴミを誰も片付けようとしないことである。昨日のことだが、私の目の前の座席が空いたので、座ろうとすると、コーヒーの空き缶が置いてある。そこで、今、席を立った若者に「缶、捨ててんか」と促してみた。しかし、若者の回答は「それ、オレのじゃないっす」。自分が出したものではないから、捨てなくていい。そういうことらしい。なるほど筋は通っている。しかし、その後に座る者のことを全く考えていないのである。
では、お前はどうなのか。そう聞かれるであろう。私は、こうした電車内で身の回りにあったゴミは、必ず私が片付ける。誰が出したか知らぬが、少なくとも電車内は公共の場であろう。それなら、それ相応に奇麗にするのは、公共の場を利用する者の心得である。私はそう思うし、そういう教育を両親から受けた。学校から受けたかどうかは知らない。電車に乗って、空き缶がコロコロ音を立てて転がっているのに、誰も拾わない。乗客皆、耳が遠いのか、それとも目が見えぬのか。中には、そういう方もおられるであろうが、人口比率から考えて、電車の乗客の中で、私だけが健常者であることはあるまい。
そんなことをしたら、ゴミを放置した人が得をする。ゴミをゴミ箱に捨てた人が損をする。そういう意見もあろう。しかし、ゴミ箱に捨てたくらいで何を損するのか。エネルギーか。それなら私もメタボリック何とやらの一歩手前である。エネルギーなどむしろ消費したいくらいである。自分がやっていないから責任はない。そのゴミに対しては責任はなかろう。しかし、公共の場を利用している、という点で言えば、責任はあるはずである。私と公とのバランスを考えれば、その程度、公に殉じて何も損はすまいと思うのである。
そう思って、今朝も電車に乗った。拙宅の近所の駅を始発する電車である。ところが、私の座った座席にいきなりスナック菓子の袋が放置されていた。ついに、公共交通機関、と自称する鉄道会社も、すでに公共の場である、という自らの認識を放棄したか、と思い愕然とした。朝の始発の電車ということは、一度、車内を点検しているはずである。そこでゴミがあっても良いと思っているということか。それでは、車内でゴミを放置されても止むを得ない気がしたのである。いきなり乗ったら、ゴミがあったのだから、放置しても良いってことでしょ。そう反論されたら、どうしようもない。
それでも、私は目に付けば車内のゴミを拾うのである。そこは、私が公からお借りした空間である。借りたときよりも奇麗にして返す、というのは、私は日本では常識であったと思うのである。今の常識は違う、というのであれば、私はこの「ゴミ拾い」の行為を通じて、昔の常識を取り戻すべく行動するのみである。
この件に関しては、皆さんのご賛同を得たいものである。