適当な話

新年明けてから、1回しかエントリしていない。去年までの情熱はどうした、と言われかねない。しかし、2年も続けて文句ばかり言っていたら、流石に文句のネタも尽きるというものである。さらに、去年の夏場くらいからやたら酒を飲む機会が増えた。そのせいか、あまりストレスが溜まっていないのかも知れぬ。
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件のオジサマが、ゴルフでグランドシニアを目指されるそうである。オジサマには再三、盾を付いてきた私であるが、こればかりは素直に応援申し上げたい。オジサマの日記を読むと、かなり上手なのである。これは、素直に羨ましい。野球経験者は、ゴルフをさせるとやはり上手い。互助会の委員をやっている同年も野球経験者で、スコアは辛うじて私が勝つ程度だが、飛距離では歯が立たぬ。こちらは、ドライバーで260Yそこそこは打つので、飛ばし屋の方だと思っていたら、相手は40Yも先に行く。オジサマも野球経験者であられる。昔取った何とか、ではないが、若い頃に体を鍛えられた方は作りが違うのか。私の父も、小さい頃は貧農で育ったこともあり、足腰がやたら強い。父は、陸上競技とバレーボールと野球をやっていた(田舎なので掛け持ちが普通)上に、百姓であるから、体が違う。父とは年に2度ほどラウンドに出るが、疲れているのは私である。父はカートに乗るのはゴルフじゃない、せっかくの芝の上を歩くという楽しみがない、と言って乗らない。それでも元気である。私の父は62歳。妻の父は、漁民で61歳で現役。オジサマはもう少し年上であるが、何ともお元気。何ともすごい爺様たちである。少なくとも、ゴルフは私も負けぬように頑張りたく。
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北朝鮮が「日本人はマツタケが食べられなくてかわいそう」と言ったらしい。そう、山崎拓が報告した。正直でよろしいと思う。北朝鮮山崎拓もである。日本では、昔は里山に人が入った。下草を払うから、地面が割り合い乾燥し、マツにとっては適した生育環境であった。それが、化学肥料の隆盛とともに、下草を払わなくなって、湿気が増えてマツが枯れる。マツタケはマツに付くらしいから、確かに日本ではマツタケは食べられなくなった。北朝鮮の人は、なかなか日本のことをよく研究されている。感心である。マツタケをたらふく食べられる北朝鮮には、人道支援とか要らぬらしい。日本では、格差社会で上流階級しか食べられないマツタケが潤沢にある。日本を哀れむほど物産に恵まれているそうである。しかも、日本は「解決済み」の拉致問題をネチネチと言ってくる。この際、日本と縁切りをオススメする。無論、国交断絶だから、日本に駐在されている北朝鮮国籍の皆様にもお戻り頂くことになるわけだが。
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政治家が偉い高い家賃を払わされたそうである。小沢一郎氏は、1年で家賃を10倍もふんだくられたらしい。可哀想である。何とも、ひどい悪徳な賃貸業者に絡まれた話である。しかも、よほど悪徳業者に脅されているらしく、これは問題がない、私の不徳の致すところとコメントしている。自民党系の閣僚にも、同じように悪徳業者にやられている者がいるらしい。ここは、善意と正義の塊であるマスコミの出番である。政治資金という国民からの浄財を、悪徳にふんだくる賃貸業者の闇を暴いてくれ。拙宅は、月7万円の家賃で暮らしているが、これが一年後に70万にされたらどうしようもない。そうなったら、私ならマスコミに泣き付く。政治家もどうしようもなくなったから、マスコミに泣き付いたに違いない。マスコミ諸兄の活躍に期待したい。悪徳業者の不正を暴け。
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ちょっと恥ずかしいと思った件。朝日新聞東京新聞の社説の題名。
朝日http://www.asahi.com/paper/editorial20070113.html#syasetu2
東京http://www.tokyo-np.co.jp/00/sha/20070113/col_____sha_____003.shtml
自分たちは「ウケる!」と思ったのかも知れないが、被ってしまうと情けない。
しかし、不二家ともあろう老舗が一体どういうことなのか、やや理解に苦しむ。ただ、ここで「食の安全」とマスコミが血眼になっているのは、若干おかしな話のように思う。こんなのも、結局、都会の人間だから大騒ぎしているのだろうとしか思わぬ。都会のように人が密集した場所にいれば、こういう事件や事故は起きてしかるべきである。不二家をかばうつもりは全くないが、食の安全と言うのなら、安全を他人に完全に依存しなくては生きていけない都会民の現状を少しは分析してみせろと思う。食の安全を憂う消費者の声を紹介しながら、輸入食材(特にシナ大陸産)の危険性に全く触れないのは一体どういうことなのか。田舎に住んでいると、未だに物々交換をすることがある。私の妻の実家は漁業をしているが、近隣は農家である。近所の農家が、野菜を持ってくるので、魚でお返しをすることがある。ここで、お互いの持ち寄ったもので腹を壊そうものなら、近所付き合いが出来なくなる。難しく言えば、共同体が崩壊する。ところが、都会では貨幣という代価で支払う。貨幣という形になったところで、「お互い様」がなくなっているのである。それが資本主義、貨幣経済、と言えば一丁上がりだが、それが行き着けばこういう事件も起こる。
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相変わらず新聞はネットがお嫌いであるらしい。今朝の産経新聞の朝刊には、こんな特集記事が載っていた。
http://www.sankei.co.jp/seikatsu/seikatsu/070116/skt070116000.htm
これを「ネットが悪い」「匿名が悪い」というのはどうか。今朝の同じ新聞の投稿欄には、見事に「匿名希望」の意見が掲載されていた。その矛盾はどうなるのか。だいたい、選挙は匿名性がなければ成立すまい。新聞記者だって、社説は無記名である。社名を賭して書いている、というならば、一般国民がネットで意見する際は、「小市民」を賭して書いているということであろう。上記記事の話で言えば、今までは電話や手紙という形態だったのが、ネットという手段ができただけのことである。ネットのマナー云々の問題を持ち出すのは、少し異なる。ネットで盗撮サイトやエロサイトが存在することをしばしばマスコミは叩くが、写真週刊誌などでは著名人の下着がわずかに見えた写真を掲載して、商売している。どちらも似たり寄ったりである。そもそも、そういうものは存在する。マスコミが言うように、世の中を「キレイ」にしようと思って、いろいろ規制をかけると、確かにその規制が機能した世界はキレイになる。しかし、その一方で、規制によって処理された別の領域に「ゴミ」が溜まる。これは、熱力学第二法則である。部屋を掃除機でキレイしたが、掃除機の中はそれまで以上にゴミが溜まっている。ネットに対する規制というのは、そういうものであろう。こうした熱力学的な世界観に並立するのが、オートマトン的世界観である。ごく近隣にしか適用範囲のない、いわば「弱い」ルールを適用していき、その時系列を俯瞰すると、ある一定の規則的なパターンを形成する。これは、自己組織化ともいう。恐らく、社会はどちらかと言えば、自己組織的な面を持つし、日本社会は長年そうしてきた。日本人がやってきた、礼儀作法というのは極めて近隣にしか伝わらない。欧米人のやるような演説は、日本人の文化にはない。演説の目的は、できるだけ短時間に自分の主張を広めようとすることである。つまりは、社会に対する一種の「規制」を要求しているわけであろう。今の日本はタカアンドトシではないが、欧米化した。だから、世の中が「悪く」なると、規制で何とかしようとする。それよりは、自己組織化を信じる方が、世渡りは楽である。礼儀作法と言っても、何々流ではない。昔のCMではないが「お父さん、お母さんを大切にしよう」「元気に挨拶をしよう」の程度でいい。今は、その程度の「弱い」ルールが若干綻んでいるだけであろう。私は、割り合い世の中に対しては、楽観している。一番簡単に解決するには、みんなが田舎に住めばいいと思っているからだし、いずれそういう時代が来るだろうと思っている。田舎に住んで、都会に現金を掴みに行く、というのが、将来の流行になる。私はその最先端にいる、と思っているのである。