雑多にいきます

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仕事の帰りに電車に乗っていたら、向かいの席の紳士が読んでいた夕刊紙に「柳沢やめろ」と大きな文字が書かれていた。直感的に、サッカーの柳沢がまたスーパープレーでもやらかしたのかと思った。なんといっても、私にとって06年のスポーツシーンの中で、柳沢のスーパークリアほど鮮烈に記憶に残るものがない。それをまたやったのかと思った。ところが、帰宅して読みそびれた朝刊を読むと(以前にも書いたが、私は朝刊の届く前に家を出る)、厚労相の柳沢氏が何か「失言」をやらかしたらしい。
北海道新聞の報道を見ると、柳沢氏は「15−50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、機械と言っては何だけど、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」と述べたそうである。個人的には、何が問題なのか、いまだに理解できない。私の妻も同感である。ある日突然、30歳の女性が増えるということはあり得ない。30歳だった人は、その前の年には29歳であるわけであり、やはり柳沢発言はまともな発言であるとしか思えない。機械に例えたのが悪いというのなら、マスコミは我々サラリーマンを「社畜」など、家畜呼ばわりではないか。アメリカは日本人を「エコノミックアニマル」と動物扱いである。シナ人や朝鮮人は、歴史的に日本人を「夷」と呼んできて、未だに呼んでいる。いずれも「人でなし」という意味である。そこには抗議しないで、柳沢氏には抗議するのも妙である。
正直なところ、どうでもいい。
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上の話を受けて、野党各党がサボタージュだそうである。羨ましい。サボタージュ。甘美な響きである。これを国会のセンセイ方は「審議拒否」というのだそうである。
恐らく、このサボタージュには自民党も加担している。例えば、サボタージュを回避するが、柳沢氏更迭もしない、ということで手打ちになった場合、今、野党にとって最大の問題である「カネ」の騒動も追及しない、という了解が出来たときである。今は、その根回しの真っ最中なのであろう。
私は小沢氏が悪徳不動産業者に家賃をふんだくられた、と思っていたが、土地を購入していたそうである。しかも10億円分。何で、政治資金といういわば「泡銭」が、土地という不動産に化けるのか。政治資金を出した側は、政治家の水商売的な側面を理解して、流れ行くカネならば、上手く使ってくれ、と願っているだけである。それを蓄えて、不動産にする。そのロジックというか、理由がまるで見つからない。どういう了見なのか。
さらには、恐らく民主党内の旧社会党系、および現社民党の面々が恐れていることであろう、朝鮮総連がらみの献金の話である。これもつつかれたくない。もちろん、私は性格が悪いから、与党である自民・公明の両党にも同じようなミソのついている人がいると疑っている。そういう人たちが、表で叩かれないようにするための裏工作をしているのであろう。私はそう思う。それならそれでいい。ただ、マスコミは暴け。権力というのは、行政権のことだけではない。立法も司法も、同じく権力である。権力の監視をするのであれば、立法権の行使者である与野党の議員の不正を暴け。
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格差というのが、最近のキーワードである。地方と都市の格差、社員と非正規社員の格差、などなど。最近は「格差」という話を聞かない日はない。もちろん、是正されるべき格差はある。しかし、地方と都市に関して言えば、格差がないと面白みがない。私はそう思う。
私はいつも自称するように、田舎者である。都市に現金をつかみに行くルンペンみたいなものである。田舎者のくせに、田舎で生業の出来る能力を持っていない。生粋の都会人でないから、都市に住むとすぐに健康を損ねる。大阪の梅田だの難波だのに出ると、4時間もいると頭痛でフラフラになる。しかも、都会人でないから、時間にルーズである。仕事は常にそれで怒られる。ここ数週間、怒られっぱなしである。唯一、今の仕事の中で最も付き合いの長いクライアントのリーダーは、香川出身の田舎者である。この人だけは、自らを田舎者と自称するだけあって、私のことも理解してくれているように思う。おかげで、何故か、このクライアントの仕事だけは、私は期限内に完了し、相手も納得できる成果を出せる。やたら期限にうるさいクライアントの仕事や、同じ職場内の仕事はたいがい失敗している。おかしな話である。それは余談。
ともかく、都会の基準で考えると、地方は格差ベクトルの低い方に存在していることになる。しかし、田舎の基準で考えると、都会人が1万人集まっても、無能の人たちである。まず、都会人は野良仕事が出来ない。しかも、鶏はおろか、魚すら生きているものを捌くことが出来ない。また、電気やガスがなければ、炊事洗濯も出来ない。冷暖房がなければ、不平不満を言う。こんな都会人は、田舎の評価基準で言うと、何も出来ない人である。
要するに、それは評価・価値観の違いである。今までは、そういう評価基準・価値観が多様だったのである。方向がたくさんあれば、格差といってもいろいろで、そう簡単に判断できない。ところが、今は完全に都市の価値観だけで世の中が判断されている。都会の人は、本質的に言えば、物事を単純化する人たちである。作業の手順をマニュアル化すること、経済をある数値に置き換えて、それを人間活動の証と見ること、自然現象の一部を切り出して、さらに実験し、定式化して論文を書くこと。すべて、複雑な、人間の営みも含めた、自然のシステムの一部分だけを切り取って、さもそれが世の中の全てであるかのように喧伝するのが都会人の特徴なのであろう。地方と都市に格差がある。それは都市の基準から見ても、地方の基準から見ても、格差があるに決まっている。今までは、それを「一長一短」と呼んだ。ところが、現在は、田舎基準がなくなった。完全に都市のモノサシだけで見るようになったのである。このモノサシで見た格差が問題だ、ということ自体が、私には問題であると思う。評価が対立するモノサシで見れば、一長一短。方向の全く違うモノサシで見たら、どっちもどっち、ということだってあり得るのである。
今の世の中で大事なのは、評価のモノサシを増やすことであろう。社会が一見歪んでいるように見えるが、実態は一つのモノサシしかないから、値が低いとか、あるいはそのモノサシでは計れない、ということだけではないかと思う。
地方と都市の格差は、あった方がいい。私は、自分の住んでいる土地が、小東京になったら、あっさりと出て行く。その覚悟はある。それゆえに、私は絶対に自分の家という不動産を購入しないのである。