カレーの味

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先日のエントリで、月の飲み代が6万を越えた、と書いた。そうなると、実は外で飯を食うことになる。つまり、その分、自宅で飯を食わない、ということになる。私はどちらかといえば味音痴だと、自分では思っている。最近は外食産業も発達したもので、これはマズイ、というものはなかなか食べられないご時世である。要するに、どこに行っても旨いのであるが、しかし、どこか物足りない。
昨日は、拙宅の夕飯はカレーであった。これが旨い。妻が作るカレーは、本当に旨い。私の母が作るカレーも旨かった。また、いつも世話になっている義母の作るカレーも、また旨い。私が、単身時代に自分で作ったカレーも、また旨かった。ところが面白いもので、例えば友人の家にお邪魔したときに出されるカレーは美味しいのだが、何が物足りなかった記憶がある。また、私自身はカレーが大好物だから、ゴルフ場では必ずカレーを注文するし、立ち食いのうどん屋に行けば、カレーうどんを食べることも多い。特にゴルフ場のカレーは、どういうわけかゴルフ場がやたらこだわっていることが多い。つまり、ゴルフ場のコース以外の施設の評価指標が、クラブハウス内レストランのカレーになっているらしいのである。例えば、月刊GD誌には、漫画家のとがしやすたか氏によるゴルフ場ラウンドレポート(正式なタイトルは失念した)が連載されているが、ゴルフ場の評価項目に「カレー」の項目があるくらいである。ところが、こういうところで食べるカレーも、美味しいのだが、旨くない。いや、表現が「上手くない」。要するに、何か物足りないわけである。
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その物足りなさの正体、あるいは家庭で食べるカレーを満足させるものの正体は、実は安心感なのだと思う。正直なところ、カレーほど、中に何が入っているのか、正体不明な食べ物もない。入っているスパイスの種類はわかっても、どういう割り合いで何が入っているのか、というものはよくわからない。テレビでカレーの専門店を紹介していることは多いが、バナナだのマンゴーだの、とにかく何でも入っている。結果、美味しければいいということなのだが、私はそれでは少し安心ができない。もともと、カレーには信頼を寄せている。つまり、カレーはどこで食っても美味しい、という意味では信頼しているのである。しかし、何が入っているんだろう、という安心感は、外のカレーには少しだけ足りないような気がするのである。だから、妻、母、義母、自分の作るカレーは安心できるのである。この自分を含めた4名に対し、私は安心している、ということである。実際、この4名、みな使うルーが違う。妻はバーモントカレーの甘口(本当は中辛らしいが、3歳の長男が食べられる辛さにするため)、母はバーモントカレーの辛口、義母は貰い物(妻の実家は網元のような家なので、貰い物が多い)のカレールーを適当に混ぜる。私は、メタル食品のオリエンタルカレーである。それでも、皆、旨い。それは、数値化できる「味」ではなくて、安心感であろうと思う。じゃあ、その市販のルーの正体はどうなんだ、と言われるところであろう。そこは、親鸞がお弟子に「何故、上人は念仏をされるのですか?」と問われ、「法然上人が唱えよ、と言ったからだ。法然上人は良い人だから、私は信頼する。法然上人がウソを吐いていても構わない」と言った、感覚に近い。妻や母や義母を信頼しているから、選ぶものも信頼できる。そう答えるしかない。安心、信頼、とはそういうものであろう。
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家で食べることの安心感は、実は育児につながる。私は最近、そう思う。というのは、3歳の長男は遊び盛りで、食べることよりも遊びたいと思うようである。私は、サボり社員とは言え、帰宅できるのが21時過ぎることが多いので、平日は滅多に長男と食事をすることができない。しかし、昨日は偶然、長男が夕方前に遅い昼寝をしてしまったので、夕飯を一緒に摂ることができた。私が妻の作るカレーを「旨い!」と言いながら食べていると、長男もつられて食べる。いや、食べるそうである。妻曰く、私と一緒に食べる時の方が、そうでないときよりも1.5から2倍くらいの量を食べるらしい。長男は、まだ3歳だから、自分の味覚がまだ頼りない。特に、酸っぱいものや苦味のあるもの、香りのあるものは、一瞬戸惑うこともある。私が、それを「旨い」と食べると、長男は最初は嫌な顔をしながらも、段々笑顔になって「うまいな!」と言って飲み込む。そういう場面が多いそうである。何故、目の前にして伝聞形なのか。自分が食事をしているときは、旨いものを食うのに、大人である私が精一杯なのである。ともかく、私が一緒に食べて「旨い!」ということが、長男にとっては安心感なのであろう。
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そういえば、結婚して妻の両親宅の近くに住むようになり、今でも2週間を空けずに妻の実家に通っているが、義母から「Yottiくんは、何でも美味しい、と言ってくれるから、嬉しい」と言われ続けている。私は、それが当たり前だと思っていた。ところが、妻に聞くと、妻の実家では別に食事の感想は言わなかったそうである。あるとすれば、不味い、という感想だったそうである。私は、不味いと思ったものは、手を付けないだけである。感想は言わない。美味しいものには、美味しい、と感想を言う。不味くも美味しくもないものは、どうするのか。私の判断では、それは不味いものである。しかし、最近は義父が私の影響かどうかは知らぬが、積極的に食事の感想を言うようになったそうである。義母が大変喜んでいた。
しかし、旨いものを作ってもらって、感想の一つも言わない、というのは、どういう了見なのか、私にはわからぬ。私の父は、貧しい農家の出身だったこともあり、食事での振舞いにはうるさかった。マナーどうのこうのではない。高校を卒業するまでは、私は正座して食事をしていた。これも小さい頃に躾けられたからである。それが当然だと思っていた。大学に出て一人暮らしをしてから、初めて実家に帰ったとき、父の前で正座して飯を食っていたら、父から「足は崩せ」と言われた。何か、父から一人前とは言わぬが、大人として認められた気がした瞬間でもあった。また、食事の味については、母から旨いかどうかを尋ねられるまで感想を言わなければ、父は烈火の如く怒った。だから、必ず一口目で感想を言う癖が付いた。無論、母の料理は旨いし、また父も大変料理が上手い。母が2年前に倒れたとき、私が一つだけ安心していたのは、父は料理ができるので、母がもし要介護となっても、何とかなる、と思ったからである。現実には、母は介護不要なまでに回復しているが、今では料理のほとんどは父がしているそうである。
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こんな、ある意味ではバカなことを真剣にやっている家は、ウチだけだったんだろうな、と思っていたが、そうではなかったらしい。私が好きな評論家の屋山太郎氏は、出典は忘れたが、教育論の中で次のような意味のことを述べていた。
「他人が作ったもので、旨いものは、美味しい、旨いと感想を言え。不味いものは、黙って食え」
これは名言であると思う。よっぽど、美しい国、という言葉よりも、具体的で、かつ即効力のある言葉だと思う。私がもし首相になることがあれば、あるいは政党なりを率いることになれば、上の言葉をキャッチフレーズにしたいと思っている。「頂きます」「美味しい!」「旨い!」「ご馳走様」。これを皆でやれば、十分、美しい国が出来上がる。これは、断言できる。
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