「リベラル」って何?

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新聞を読んでいたり、政治的な話題でよく使われる言葉に「リベラル」というものがある。英語の大文字で「Liberal」が、一応、語源であろうと思う。ちなみに、私が持っている「Oxford Student's dictionary of current English」によると、Liberalとは

person with moderate progressive views

だそうである。日本で言う進歩的文化人、という言葉は恐らく、このLiberalの言葉の意味から来ているのだろうと思う。moderateは「近代的な」という意味である。恐らく、欧州における市民革命以前と比較して「近代的な」という意味であろうと思う。問題は、progressiveという言葉の意味である。進歩的、というが、何がどう進歩的なのか。同じく、上記の辞書を引くと、恐らくこの意味であろうと思う。

improving; supporting or favouring reform, modernization

である。向上する、改革や近代化を支援し、あるいは好む、ということのようである。こうなると、辞書としては堂々巡りとなるので、このあたりでやめておく。
しかし、この語義から言うと、少なくとも日本人の多くは、Liberalに当てはまるはずである。ということは、わざわざ「リベラル」と日本語表記したときとは意味が違うような気がしてならない。
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日本人、特に自身を「リベラル」と考えている人たちが誤解していると思うが、米国・民主党は、別に思想としてはLiberalではない。彼らはdemocratsと称する。つまり、民主主義者だということである。ちなみに、Liberalとうい言葉は、アメリカではニューヨークなど一部の都市を除くと、あまり良い意味に受け取られないそうである。もし、ヒラリー・クリントン女史に「貴女はLiberalですか?」と聞いたら、恐らく否定されると思う。他人はそう言うかも知れませんけどね、と返されるくらいではないかと想像する。
要するに、アメリカ人にとっても、語義の通りのLiberalは当たり前すぎることなのである。それをわざわざ自称する人間は嫌悪されるということであろうと思う。日本でも、私はマジメです、と言う人があまり好まれないのと似ている。日本では、マジメで勤勉、というのは当然のことであり、自称するほどのことではない。アメリカはもともとイギリスの植民地から独立した国である。そもそも、建国の思想の根底がLiberalなのであろう。それを前提にした上で、democratsとrepublicanに分かれている。ここで、私はLiberalというのは、ある意味で気障だということなのかも知れない。
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さて、日本における「リベラル」である。リベラル、と聞いて頭に浮かぶのは、朝日新聞筑紫哲也である。筑紫氏はもともと朝日新聞の記者さんだから、要するに朝日新聞である。朝日新聞が普段主張していることに、概ね近いことを主張している人が、日本における「リベラル」ということになると思う。
朝日新聞が主張していることは、人権擁護、個人の自由の拡大、ということに集約していいのではないかと思う。左翼思想も混じっているが、恐らく左翼思想と「リベラル」は本来繋がっていないし、朝日新聞が持つ左翼思想は、左翼思想のようなもの、であって、私は個人的には「サヨク」とカタカナで書いているものである。本当の左翼思想は、朝日新聞を筆頭にした日本の「サヨク」の思想とは、全然異なっている。そこは置く。
こういう自称「リベラル」の人たちが、英語のLiberalの語義にあるprogressiveを独占している。人権擁護、個人の自由拡大、という主張に日本独特の「サヨク」思想を加えて、progressive=進歩的、ということなのであろうと思う。
こういう言葉遊びをしていると、実は面白いことに気が付く。元のLiberalの語義は「近代的で進歩的な見方を持つ」とある。ところが「近代」も「進歩」も、実は相対的なものでしかない、ということである。絶対的な「近代」というものはない。今、我々が中世と呼んでいる時代においても、その前の時代と比較したら「近代」になるはずである。進歩だと思っていたことが、実は足を踏み出した方向が間違っていて、大幅な方向修正を余儀なくされることもある。第二次大戦までの列強各国は、進歩の名の下、世界各国に植民地を求めた。日本は、植民地を持つ列強の経済支配に対向するための策(苦肉の策だったのかも知れないが)として、植民地解放を訴えたのである。結果、第二次世界大戦で日本は大負けに負け、謂れのない罪まで着せられている。しかし、植民地解放という「思想」は現実のものになった。当時では、間違いなく日本の考えた植民地解放は「進歩的」で「近代的」な思想だったはずである。
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つまり、現在において自称「リベラル」という人々は、自分たちが持っている思想こそ最先端で、これ以上の進歩はあり得ない、と思っている人たちなのだと言える。これ以上の進歩はない、と考える思想は、一般の人から見て「進歩的」か否かに関係なく、遠くにぶっ飛んでいるように見える。「リベラル」という人たちが、支持を受けない理由(すなわち、社民・共産がほとんど議席がなく、民主党が選挙のたびに退潮する理由)も、実は、ここにある。遠くにぶっ飛んでいて、話が通じない、ということが一つ。もう一つは、自分が「進歩的」であるということで、相手を見下しているということである。話が通じない相手から、馬鹿にされて、支持します、と言える人はあるまい。新興宗教であっても、教祖と信者の間では話は通じている。その新興宗教、あのオウム真理教でもたかだか1万強であったことを考えると、「リベラル」の方々は、自分たちが支持されない理由について、もう少し自省した方が良さそうに思う。
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ちなみに、日本社会はずいぶん崩壊したように見えるが、そうでもない部分がある。悪い面から見えるところだが、日本では家族内の事件、例えば幼児や老人虐待、親子殺人などが多い。これは、日本社会が「個人」を最小単位にしているのではなく、「家」を最小単位にした社会だからだ、と養老孟司氏は指摘している。いい面で言えば、日本では長年続く老舗の商店や伝統工芸などが、他国より圧倒的に多く残っている。これも、最小単位が「家」であるため、構成員、特に跡取「個人」の自由は、それより下位に置かれていることを意味している(だから、私は相続税制度を撤廃しろ、と主張したい)。
「リベラル」の方々の主張が受け入れられない理由には、実はこういう背景もあると、私は考えているわけである。ただし、どうすれば「リベラル」の方々の主張が、世間に受けるかどうか、ということについては、私は考えない。何故なら、私は「リベラル」ではないからである。世の中で何か問題が起きたら、それは過去の歴史に解を求めるのが、私のやり方だからである。小泉氏の郵政改革は、実は新しくも何ともなく、織田信長の経済政策の真似であることは、以前書いたと思う。改革、という言葉が必ずしも新しいもの、オリジナルであるとは限らない。そこまで考えている時間は、私のような会社員や、内閣総理大臣のような独楽鼠のような生活を送る人間には、ないからである。
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