頼もしい人、頼もしくありたいと思う人

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手元に司馬遼太郎氏の「十六の話」というエッセイ集がある。この中の最後に、大阪書籍の国語の教科書に掲載された「二十一世紀に生きる君たちへ」という文章がある。私は、何か自分が打ちひしがれたときに、この文章を読む。すると、立ち上がろう、という気持ちが沸いてくる。その中でも、最も好きな部分を紹介する。

人間は助け合って生きているのである。
私は、人という文字を見るとき、しばしば感動する。ななめの画がたがいに支え合って、構成されているのである。
そのことでも分かるように、人間は、社会をつくって生きている。社会とは、支え合う仕組みということである。
原始時代の社会は小さかった。家族を中心とした社会だった。それがしだいに大きな社会になり、今は、国家と世界という社会をつくり、たがいに助け合いながら生きているのである。
自然物としての人間は、決して孤立して生きられるようにはつくられていない。
そのため、助け合う、ということが、人間にとって、大きな道徳になっている。
助け合うという気持ちや、行動のもとのもとは、いたわりという感情である。
他人の痛みを感じることと言ってもいい。
やさしさと言いかえてもいい。
「いたわり」
「他人の痛みを感じること」
「やさしさ」
みな似たような言葉である。
この三つの言葉は、もともと一つの根から出ているのである。
根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練してそれを身につけねばならないのである。
その訓練とは、簡単なことである。例えば、友達がころぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持ちを、そのつど自分の中でつくりあげていきさえすればよい。
この根っこからの感情が、自己の中でしっかり根づいていけば、他民族へのいたわりという気持ちもわき出てくる。
君たちさえ、そういう自己をつくっていけば、二十一世紀は人類が仲よしでくらせる時代になるのにちがいない。
鎌倉時代の武士たちは
「たのもしさ」
ということを、たいせつにしてきた。人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。人間というのは、男女とも、たのもしくない人物にみりょくを感じないのである。

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なぜ、これを引用したかというと、拙日記につきまとっている方の、本日付のエントリを読んで、怒りに震えたからである。
http://d.hatena.ne.jp/katchan/20070310
この方が、アンチ自民で、安倍総理以下政府与党が気に入らぬことはよくわかる。しかし、この公開された言論の中には、上で引用した司馬氏の言う「いたわり」「やさしさ」「他人の痛みを感じること」「たのもしさ」の欠片も感じられない。
自分の子供が、何の罪もなく、拉致され、そして今も帰ってこない。まして、それが正確がどうかを確かめる術もないが、情報としてはそのご本人(ここで実名を挙げれば、例えば横田めぐみさん)は生きている、というものさえある。ご家族は、そのか細い情報に自分の全人生を捧げ、ここまで生きてこられたのである。私は、自分が同じ立場におかれて、横田ご夫妻のように戦う勇気、生きる勇気を維持できるかどうか、自分に自信がない。ご夫妻を支えてきたのは、そのか細い情報と、支援をしてきた人たちがいてこそである。
安倍首相は、首相になる前から、この問題に真剣に取り組んできた人である。今はまだ「頼もしい人」には不十分と判断する人もおられるだろう。しかし、それが政治パフォーマンスであれ、安倍首相は「頼もしくあろうとしている人」である。安倍首相と夫人には、その「頼もしくあろうとする」姿勢は見える。交渉の結果について批判するはよい。しかし、上の御仁が書かれたような理由でもって批判することは、私は人間としての信義に悖ると判断する。
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以上の理由から、今後、はてなダイアリーにおけるid:katchanという御仁については、拙日記においては一切の相手をしないことにする。これまでの経緯から、過去のエントリを修正したり、寄せられたコメントを削除することもしないし、また、先方から送られたコメントがあった場合には、それを削除することもしない。しかし、相手には一切しない。
私には欠片もないとは思うが、それでもわずかにはありたいと願う拙日記の品位とプライドのためでもある。
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