子供の顔が見られない

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年度末である。師走は、師が走るほど忙しいというらしい。実は、この師は「先生」「師匠」のことではない、と聞いたことがある。その師走よりも、今の時期の方が断然忙しい。
今週は月曜から出張が続き、春分の日も不在にしていた。だから、子供が起きているときの顔を見ていない。これでは妻に申し訳が立たない。
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親はなくとも子は育つ。そういうらしい。しかし、そうではない。子供は親の背中を見て育つ。これは正しい、と私は判断する。というのは、子供の世界で起きていることは、実は大人の社会を鏡に映したものに他ならないからである。
例えば、少子化の問題である。一つは、以前から指摘しているように、言語表現の苦手な子供を、徹底的に言語化した社会が排除している、という側面がある。しかし、別な側面もあると私は考える。自分たちの育ちを考えてみることである。
私の父は団塊の世代の一歩先の世代である。私の父は、大変教育に熱心であった。そのため、私は幼少の頃から高校に入るまで、週末に友人と遊んだことがなかった。初めて週末に遊びに行ったのは高校時代で、当時交際していた同級生といわゆるデートをした。それまでは、週末は家族で過ごすものと決まっていた。また、私の父は夕食も基本的には、家族で食うと決めていた。だから、朝が大変早かった。そして、夕方は18時には退社するので、20時前には帰宅していたのである。私が大学に入る直前、父の職場の部下が奥さんを連れて、家に遊びに来たことがある。そのときに、父の部下は「Yottiさん(父)は、自分より部下が遅く帰ることを許さない人だった。だから、みんな朝に仕事をしていたし、帰る時間が決まっているから、必死に仕事をしてた。おかげで、夜に時間があったから、妻と知り合うこともできた」と言っていた。やたら迷惑な上司だが、良いこともあったようである。私はそういう家庭で育ったから、子供と家族のことが、何よりも大事である。幸い、妻にも私にも、生殖機能に問題がなく、今は二人の子供を授かった。
しかし、私の友人に話を聞くと、家族、特に父と遊ぶなんてしたことがない、という人間もいる。むしろ、多いように思う。父親が夕飯の時間に帰ってきたことなんかない。そういう話を私はよく聞く。
こういう「帰ってこない父親」を子供心に見て育った今の現役世代にしてみれば、父親から見て子供は不要の存在だ、と思ったとしてもあり得ない話ではない。あるいは、自分に子供が生まれて、子供にどう接すればいいのかがわからない。そういう可能性は高いと思う。それこそ、父親がやっていたように、となるのが当たり前だが、「帰ってこない父親」の子供としては、どうするのか。これだけ「女性上位」の社会である。「帰ってこない父親」が、現代に通用するとはとてもではないが思えないのが普通であろう。つまり、子供の存在が夫婦間の摩擦のタネになる可能性が高い、ということでもある。
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現代人、特に都会人にとって、リスクを回避するという行動は、何よりも優先されるし、認められる。夫婦間のリスクになりかねない「子供」を回避する都会人が、私は相当数存在すると思うのである。少子化問題の一端には、実はこういう背景があると思うのである。
ここで問題を回避する一つのポイントは、時間である。どこかの統計によると、日本人の父親が子供に接する時間は、世界の先進国の中でもダントツに低い、という結果が出たそうである。子供に接する時間を増やせば、それだけ親としての「学習」の時間も増えるということである。いくら自分の親が「帰ってこない父親」で、手本にならないとは言っても、そこは「三十路の手習い」である。何とかならぬことはない、と思う。
しかし、働く時間を短くしたら、当然のことながら、給料は減る。今の世の中は、豊かかどうか、という指標は「カネ」しかない。この「カネ」というモノサシで、何事も価値判断がされる以上、給料を減らしてまで働く時間を短くしたい、とは思いにくいであろう。
そこが実は大いに問題なのである。給料が減ることが問題なのではなく、モノサシが一つしかないことが問題なのである。何でも、カネに変換しなければ、今の世の中は判断ができない。当たり前だが、カネに換算できない代表例が子供である。ところが、今は、その子供を「カネ」にする商売まで罷り通る。
少子化の問題というのは、実は、こうした大人社会が多様性を失ったことに起因すると私は考えている。結局、子供の問題は、大人の問題なのである。
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