若者よ、本を読もう

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今日はちょっと年寄りの説教臭いエントリです。拙日記って誰が読んでるのか、よくわかりませんけれど、そもそもそういうことを気にしながら書いているわけじゃないので、まあお許し下さい。GWという連休前に時事問題を扱うのも、何となく気が引けますので。
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ここ数回のエントリで、訳の分からない恋愛アニメ・マンガにハマってますよって書いてますでしょ。ハマってるってのは、ただ面白くて読んでいる、というよりも、やっぱりいろいろ考えるんですよ。今年で高校を出て15年。ようやく、自分の若かりし頃の恋愛を考えるキッカケになったということなんです。全く、脳味噌の働きが蛍光灯並みに遅いですな。と言っても、最近の蛍光灯はバシっと点きますが。
1ヶ月前くらいだったか、もう少し前だったか、産経新聞曽野綾子さんが連載しているコラムがあります。その中で、題名は違ったと思うけど、内容としては「失恋のススメ」みたいなことが書いてありました。要するに、人生は失恋することの方が多くて、それで普通なんだよってこと。それで何も悪くない。失恋することで、いろいろ人間は学んでいくものなんだからと。まあ、ドラマやアニメだとハッピーエンドって多いから、失恋で終わっちゃう話もあっていいのかも知れません。
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実際、私自身、今のカミサンは初恋の人じゃありませんからね。もちろん、カミサンにとって私もそうじゃない。そういうもんじゃないですかって割り切るしかない。中には、初恋の人とそのまま結婚して、仲むつまじく、ということもあるでしょう。それは珍しいケースだと思うけど、だからこそ素晴らしいんです。だからと言って、そうではない私たちが卑下することは何もないし、失恋したからもうオシマイだ、なんて思う必要もありませんな。
ただ、私の個人的な体験から言えば、恋愛を真剣にやるのは、やっぱり若いうちだということです。年齢で言うのは、いろいろ問題があるかも知れませんが、まあ、30まででしょう、男も女も。それ以降は、やっぱりいろいろ社会的な責任、もうちょっと柔らかく言えば、世の中のしがらみみたいなものが出てくる。それを振り払ってまで、恋愛に走ると、世間から制裁を加えられたりする。これは、今の日本社会の価値観上、仕方がないことです。良し悪しの問題とはまた別です。
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で、話は高校とか中学くらいの頃を想定して書きます。早い話が、セックスを覚える前の恋愛ということです。私は、個人的にはこの期間がすごく大事だと思うし、恋愛自体も、この頃が一番楽しかったと思うので。
例えば、誰かのことが好きになる。そうすると、好きになるまでの自分とは、全くの別人になってますよね。この娘のためだったら、何でもできる。そんな感じがある。私自身、そうだったし。要するに、恋愛し始めた頃ってのは、非日常なんですよ。言うなれば、戦争と同じ精神状態です。戦争のときは、お国のため。恋愛のときは、彼女のため。戦争は、お国を巻き込むまで時間がかかるから、そう滅多に起こりませんけど、恋愛は基本的に一対一ですからね、まあ、戦争よりはしょっちゅう起こる。要するに、戦争も恋愛も非日常なんですよ。ここからは、恋愛に話を絞りますけど、だから今までの自分とは違う面が出てくる。それまで、人の話を聞くのはかったるい。そう思ってた男の子が、彼女の話は必死に聞こうとするわけです。これは明らかに、今までの自分と違う。話を聞くってことは、それだけ相手の話を理解しようと思っているってことですね。相手の話を理解し合うことに、人間は心地よさを感じるものなんです。これが、養老孟司さんの言う「身体は個性。心は共通性」という話の恋愛版だと思うんです。男と女ですからね、身体は明らかに違うじゃないですか。でも、そのお互いの話を理解し合う。それが心の共通性を求める脳の機能であって、それに心地よさを感じる。それが、味気ない表現をした場合の恋愛だと思うんですね。
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それで、二人は交際するようになる。付き合うってヤツですな。しばらくは、それでも非日常です。ところが、だんだん、それが日常になってくる。つまり、それが普通の状態になってくるんですね。そうなると、戦争の後、我に返った日本みたいなものですよ。何で、あんなに熱くなってたんだろ。そう思ってくる。彼女がいて、当たり前。そう思ってくる。失恋が来るのは、ここからですね。告白ってのをしてごめんなさい、というのも失恋だけど。
自分の体験をよく考えると、こういう時期はだんだん相手の話を聞かなくなってきてたんだと思うんですよ。それまでの日常で、他人の話を聞かない人間だったんです。恋愛という非日常が、日常になったら、日常の自分が顔を出す。すでに、彼女がいることが日常になってしまってるから、話を聞かなくなってくる。
どうしてかというと、当時の私は読書というものを全くしなかった。高校時代に読んだ本は、当時大流行していた「ノルウェイの森」だけだと思う。何とエロい話だ、と思ったくらいですよ。今じゃ、何とも思いませんがね。本って何ですかね。要するに、他人の話じゃないですか。自分の話じゃない。当時、本を読まなかった私は、根本的に他人の話を聞くのが苦手だったんですよ。苦手というよりは、できない、しない。
だから、同じことを繰り返すんです。付き合って、別れて、また別の女の子と付き合って、また別れる。私の高校時代では、高校生がセックスなんか、相当マセテる連中がやることだと思ってましたよ。まあ、今の高校生どころか、下手したら小学生にまで笑われかねませんな。
まあ、それはともかくとして、付き合ってしばらくすると、日常の自分になってしまって、また彼女の話を聞かなくなる。聞かないというよりも、聞く能力がない。相手の話を聞いて、それを頭の中にイメージすることができないわけです。これじゃ、心が求める共通性も減った暮れもない。心地よさを感じませんよね、お互いに。それが失恋の原因でしょうな、きっと。
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広島の高校を出て、私は神戸に出てきました。広島生まれではないから、今でも広島というところに何の愛着もありません。ただ、住んでいた場所、という程度です。その広島という田舎から、神戸という大都会に出てきました。まあ、正直に言えば、ショックでしたね。神戸ってことは、大阪も一緒のように見えます、田舎者からは。田舎で少々、女の子と付き合ったことがある、なんてことは何の意味もない。だから、そこまででもないにしても、若干、引きこもりな状態でした。学校には行く。友達とも喋るし、アルバイトにも行く。でも、サークル活動なんか、入って1ヶ月で辞めました。家に一人になって、やっと読書というものをしましたよ。一人暮らしをしてみて、他人の話が初めて聞きたい、と思ったんでしょうね。当時はただの暇つぶしのつもりでしたし、私が通っていた大学は、全国の国公立大学の中で、最も本を読まない大学とされてましたからね、その中で読書家ってのをひねくれた意味で気取ってましたわ。今、思うと、本当の読書家は、私の100倍くらい本を読むらしいんだけど。
その時期に初めて、夏目漱石とか武者小路実篤なんかを読みましたな。漱石の「三四郎」は、以来、毎年1回は読みますよ。私の中では、「三四郎」が一番面白い小説です。何故かって言うと、「三四郎」は結局、失恋するでしょ。そこが面白いんです。実篤は、だいたいの話がハッピーエンドですが、漱石は違ってますね。
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そういう生活を、私は19のときからずっと続けました。しかも、意図的にではなくて。それを続けて、7年経って知り合ったのが、今のカミサンです。今でもカミサンからは「人の話を聞きなさい!」と怒られます。それでも、19の私に比べたら、ずいぶんマシ。私は今ではそう思う。確かに、19の頃より体重は10kgも増えましたよ。当時は、痩せてたから、何もしなくても腹筋が割れてましたけど、今じゃ三段腹。見た目は悪くなったけど、人の話を聞いて、それをイメージできるようになった。私は、大変発育が遅かったんですな、そういう意味では。イメージできるようになってからカミサンに知り合ったから、カミサンとは結婚することができたんでしょう、きっと。心の共通性があるから、悲しみも喜びも分かち合える。心の基本機能を共有することが、恋愛の原点だと考えれば、私とカミサンの間には、それができたってことなんだと思うんです。
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結局、そういうことを感じる能力は、どうやれば身に付くか。それは、読書以外にないと思うんです。だから、私はマンガは否定しない。マンガは、その中間にある。マンガは、そういうイマジネーションを鍛えるための補助道具。水泳のビート版みたいなもんでしょ。マンガで少しずつトレーニングをしたら、読書をする。読書をして、その中に書かれている情景を自分の頭の中で、イメージする。上にも書いたけど、本に書かれているのは、基本的に他人の話です。これができるようになれば、他人の話を聞いて、それを頭の中でイメージできるようになる。話した人が、喜んでいるのか、悲しんでいるのか、何が辛いのか、何が面白いのか。それがわかるようになることが、心の共通性でしょ。養老さんは、それを「バカの壁」に書き、司馬遼太郎さんは「二十一世紀に生きる君たちへ」に書いた。ようやく気が付きましたよ、私は。「バカの壁」を読んだのは、多分、3年くらい前。「二十一世紀に・・・」を読んだのは、10年以上前じゃないですかね。それで、今になってやっとわかった。これじゃ会社の仕事が苦手でも仕方ありません。
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でもね、それでもみんな失恋はするんだと思うんですよ。相手のことがよくわかったから、逆に嫌いになるってことだってある。物事が「わかる」ってことは、それだけ自分が「変わる」ってことじゃないですか。養老さんの本は、基本的にそれが書いてあるし、平家物語の序文とか、方丈記なんかは、徹底的にそういう考え方が書いてあるんですよ。だけど、わからなかったら、それこそ相手を理解することも出来ない。相手を理解しようと思ったら、それが相手を嫌いになるキッカケになってしまうことだってある。でも、そこから逃げたら、人間が人間である理由がないじゃないですか。心の共通性を求める生物なんて、人間だけですよ、きっと。他の生物は、脳の大きさから見て、それは無理だと思う。そこで、安直にセックスに走って、恋愛ってこうだよね、みたいなんじゃ、それは動物と同じじゃないのかなって私は思います。無論、セックスが苦手な私の僻めもありますが。
そういう人間らしい恋愛ってのを、若い人たちはもっと充実させて欲しいと思うんですよ。そのためには、何でもいいから、どんどん本を読んで欲しい。ヴォルテールだったか、誰だったか忘れましたけど、神戸時代によく通っていた書店がくれる文庫カバーにこんなことが書いてあった。
「どんな書物でも、その価値の半分は、読者によって作られる」
本を読んで、なんの役に立つか。それは、読者が考えることなんですね。私は、読書生活15年でやっとわかったような気がします。遅きに失したような気もしますが、それでも気が付かなかったことよりは良かったと思う。
若い人も、もっと本を読むと、いいことがたくさんあると思います。連休前に、何となく説教臭いことを書いてみました。すみませんね。
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