何だかなぁ、というニュースと企画

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クルマが売れないんだそうです。
「上半期の新車販売、30年ぶり180万台割れ」
http://www.asahi.com/business/update/0702/TKY200707020268.html

日本自動車販売協会連合会が2日発表した07年上半期(1〜6月)の国内新車販売台数(軽自動車を除く登録車)は、前年同期比10.5%減の178万8440台と、2年連続で前年を下回った。上半期としては30年ぶりに180万台を割り込み、第1次石油危機直後の1970年代半ばの水準にまで落ちこんだ。

ま、そうだと思いますよ。私、田舎に住んでいて、都会に金を稼ぎに出ていますけれど、都会でクルマ、必要ですかね? 田舎ならクルマは必要だけど、そんなに買い替えが必要なほどじゃありません。実用向きであれば、それで十分です。それに、自動車メーカーの親玉だった奥田サンが会長を務めていた経団連とやらは、盛んに労働者を薄給に追い込んだ張本人じゃないんですかね。要するに、国内販売不振は自業自得ってことじゃないんですかね。
で、朝日新聞のこの記事、次のような解説で締めくくっているんですが、

自動車税自動車重量税などで軽自動車が優遇されている現行の制度を見直さない限り、軽への乗り換えは今後も進むという見方も出ている。

ちょっとスポンサー様への配慮が出すぎてるんじゃありませんことw?
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こっちは、何だかなぁという企画。産経新聞、力み返ってます。
「【やばいぞ日本】序章 没落が始まった(1)「ダイナミズム失う」」
http://www.sankei.co.jp/shakai/wadai/070703/wdi070703000.htm
あのさ、新聞社が「やばいぞ」はないんじゃないでしょうかw。もうちょっとマシな言葉は使えなかったんでしょうか。これが編集を通ったというのが、ちょっと驚きです。
しかも、いきなり「米国で博士号(自然科学系)を取得したアジア人留学生数の年ごとの変化」なんですけど、これ、グラフに載っている限りにおいて、読み取れるのは「昔から、日本人は米国で博士号を取ることに熱心じゃない」としか見えないんじゃないですかね。昔は多かったのに、今は少ない、というのなら、上記の記事の内容に合致するんだと思うんだけど。同じグラフで、台湾やインドが下がってますよね。これ、どういうことだと思います? 何のことはない、アメリカやら海外で留学して博士号を得た人が、母国に戻って教育をしてるから、わざわざアメリカまで行って博士号を取らなくていいってことですよね。これ、日本の100年くらい前の状況と同じなんじゃないですか。
さて、記事から引用をすると、普段、官僚叩きしてる産経とも思えない。

この数字がすべてではないが、日本人留学生の低迷や劣化を示す指標として霞が関の官庁街でささやかれている。それどころか、欧米の有名大学院に派遣された各省の若手エリート官僚の中に、以前にはなかった悲惨な落ちこぼれ現象が起きているという。経済学や論理学の授業についていけずに単位を落とすケースが増えつつある。
東大法学部卒のある若手官僚は、優秀な人材として出身省でも将来を嘱望されていた。彼は欧州の大学に研修留学して現地語はみるみる力をつけた。
ところが、数学力不足から経済理論がこなせず、論理学は古代ギリシャ哲学など基礎を学ばないから論理的に崩れのない文章が書けない。1年後に担当教授から呼び出され、学業不振で退学処分になってしまった。

あったり前じゃん。そんな能力、官僚に求められてないじゃん。国家公務員試験がそんな試験じゃないんだもん。それで、日本の若者は無能ってのは、少し筋が違うんですよ。これで、日本が悪くなった、なんて考えないでよ。今の制度の中での官僚はそもそもそういう生き物なんですよ。だから、この程度の能力しかないんだから、もっと給料を減らすか、それか公務員試験の内容を変えるか、どっちかでしょ。そういう方向の話ですよ、これは。官僚の良し悪しなんか、日本人全体の良し悪しとはあまり関係がない。

欧米の経済学は株価の変動など金融を中心に新しい理論が次々に導入されている。三角関数フーリエ変換など日本の文系には縁遠い計算式が解けないと歯が立たない。肝心の日本のエリートにして惨憺(さんたん)たるありさまなのだ。

私から見たら、そもそもの経済学が「学」じゃねーよ、と言いたいですな。何でかって言うと、検証実験ができないでしょ。何で経済学が数学を導入してるかって言うと、実験不可能であることに気付いたから、ロジックで丸め込もうとしてるだけだと私は思う。数学は、もともとが完全に人間の頭の中だけで作られたロジックの世界です。だから、検証実験は不要です。しかし、その数学というツールを人間の頭の外に出した瞬間、検証実験が求められることになります。つまり、反証に耐えうるかどうかを検証しなくちゃならない。つまり、経済とは、人間という自然の存在が行った活動の履歴になのだから、検証のための実験をせざるを得ないはずです。でも、同じとき、同じ条件における試験は、経済において事実上、実現不可能でしょ。だから、私はいくら数式を使おうとも、経済学は学問とは認めない。まあ、学生時代、同じ学校の経済学部の連中は、我々理科系の学生に比べると、実に緩かったですからね。それに対する反感もあることはある。
そもそも、産経がここで使っている「エリート」って何? 現代の日本にそんな「エリート」のような存在っているんですかね。エリートの定義がわかんなかったら、養老孟司さんの「バカの壁」や「死の壁」でも読んで下さい。そんな人、見たことありますか。産経がここで使ってる「エリート」は、所詮、キャリア官僚のことでしょ。それは、「高級官僚」ってだけで、エリートじゃない。それがわかってたら、この企画の最初の段階で、キャリア官僚のことを出さないと思いますよ。それに、私は、別に官僚なんて無能でいいと思ってますから。
さて、今回の結びはこんな言葉でした。

いま、日本の没落が始まっている。経済は好調なのに、ジワジワと迫り来る長期的な不安がぬぐえない。人口減少に歯止めがかからず、エネルギーの獲得競争に相次いで敗れ、日本が誇った技術力にもかげりが見える。教育の劣化やモラルの崩壊は目を覆うばかりだ。日本文明の没落までささやかれ始めたいま、その現実とそこからの脱出を探る。

まず、言葉として定義しておくと「日本文明」なんてのは、ハンチントン教授が使ってくれたから、産経など右側っぽい人は喜んで使ってるけど、そんなものないんです。日本文化なら、ありました。文化ってのは、ローカル、あるいはドメスティックなもので、ある地域、広くても国や民族程度にしか通用しないもので、それが国境を越えても、ある程度のブーム的な程度のもののことです。日本がかつて輸出してきたのは、文化の方。文明というのは、古くはローマのように、民族や地域に関係なく、その恩恵に浴することができるものです。キリスト教はローマをある部分ととしては受け継いだでしょうし、今はイスラムも大きな文明の一つですね。アメリカの「グローバリズム」も一種の文明でしょう。言葉時代が、文明であることを示してるし。
そもそもなかったものに「没落」などと書くのが、マスコミの嫌らしいところです。危機感を煽るのは、マスコミの常套手段なんですよ。もちろん、上に書いた問題がないとは言いませんよ。だから、何かしなくちゃいけない。私は、それを以前に「5%の痩せ我慢」で達成できると書きました。福沢諭吉がそのことは100年以上前に書いてることなんです。ことさら、今のマスコミが力みかえるような話じゃない。そもそも、マスコミは「起きたこと」だけを取り上げます。しかし、「起きなかったこと」は彼らにとって、今のところ、無価値です。そこに気が付くかどうかだと思います。
もちろん、一般の生活者たる我々は、日々何も起きないようにしているんです。生活の中ではそれが一番大事なんですよ。日々是無事平穏の何が悪いんですかね。その意識が最も稀薄なのが、マスコミなんですよね。無事平穏じゃ仕事がない。いや、仕事がないんじゃなくて、仕事が面倒なんです。何か起きてくれた方が、楽だから。でも、我々は普段の仕事でも、とにかく日々是無事平穏が第一です。会社が不祥事を起こさないためにも、結局は、無事平穏を維持するためです。その根源は、5%の痩せ我慢。それに気が付いてから、こういう企画を立ち上げて欲しいと思います。
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