あるがまま、こそゴルフの楽しみ

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ゴルフをする楽しみって何なんでしょうね。拙日記は、名前の通り、元々は一介のゴルフ狂が練習日誌の代わりに書き始めたものでした。それがいつの間にか、周りに影響されて時事問題を論じたりして、一体何が何だかわからないような日記になっている始末です。ですので、たまにはゴルフのことを真剣に書いてみようと思います。
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ゴルフをしない人から見ると、ゴルフはとても奇怪なスポーツに見えると思います。耳かきの化け物のような器具を使って、石ころを遠くにぶっ飛ばす。そして、最後には穴ぼこに転がして入れる。何が面白いんだ、と言われると、正直、困るんです。何が面白いかわからないから面白い。コンニャク問答みたいな答えしか、今のところ、私には出せません。
若い頃、まあ、今でも今年でやっと35歳ですから、まだまだ若いつもりでいるんですが、まあ、ついこの間って言っておきましょうかね、それまではいわゆる「スコアの亡者」だったことは確かです。それを、アスリートゴルファーなどと、かっこよく言い換えてはいましたが、要するにスコアが出りゃいい、という立場でした。
もちろん、スコアってのは大事です。これは、ある意味では人様に迷惑をかけないための基準になります。私が小さい頃までは、4人1組でエントリしようと思っても、ハンデの合計が100以下じゃないとラウンドできなかったようです。一人あたりハンデ25だから、まあ100程度で回れたら、コースに出れる一人前。だから、今でもまともなコースのクラブハウスにかかってるメンバーボードのハンディキャップは36までしかない。つまり、108以上叩く人は、コースに出ちゃいけないんだってことです。
しかし、それ以下でラウンドできたら、今度はスコアだけじゃなく、振る舞いが大事になってくるわけです。今まで、確かに気を遣っては来たつもりですが、四捨五入したら40歳にもなる身。もっと正しく振舞えるようになりたいな、と最近は思ってきたわけです。
そのキッカケは、拙日記でも何度か紹介していますが、2000年に亡くなられたゴルフの名コラムニスト、夏坂健氏の著作を読んだことでした。これで、私のゴルフ観はガラッと変わった。なるほどな、スコア以上に大事なものがあるんだな、ということです。
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ちょっと話がそれますが、私は学生だった頃にすでにゴルフ狂の道を歩き始めていたわけですが、その頃、ゴルフ関連の某掲示板(2ちゃんねるじゃないです)にいろいろ知ったかぶりで書き込みをしていました。たまたま、そこで意気投合した人がいて、その方がまあ、新しい理論だか法則だったかを考えて、ご商売を始められた。当初はね、すごいな、と思っていたんですよ。実際、その情熱はすごいなと思うし、まあ、ゴルフにもいろんな考え方はあるんだと思う。
ところが、結局、その方からサンプルとしていただいた著作(本じゃないんだけど)からも遠ざかってしまった。彼のモノだけじゃない。これだ!と思って、数多のレッスン書も買ったんですが、やっぱり読まなくなる。曲がりになりにも大学に9年もいて、教授という方々に教えを乞うて来た、いわば「教わりのプロ」ですよ、私は。だけど、ゴルフでは、どうもこの「教わる」というのが、身に付かないんですね。
で、思った。ゴルフって上手く行かないから面白いんだと。だから、自分で考えた方が面白いじゃないかと。別に、競技アマでもない、ましてやプロでもない身分です。ダッファーだと、まあ飲み会やコンペの席では、ゴルフが上手いと多少良いことはありますが、すでに妻帯者となった手前、ゴルフをダシに女の子を口説くわけにもいかないし、ましてゴルフが上手けりゃ仕事で評価されるわけでもありません。それなら、一種のライフワークだと思って、とにかくゴルフの謎を自分で解いてみよう。特に、夏坂健氏の著作を読んでそう思ったわけです。
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それが先日、しばらく連絡を取っていなかった、「その方」から急にメールが届いたわけです。要するに、ゴルフの法則がわかったから、ぜひ、伝授したい。また、協力してくれと。
でも、私はゴルフは人に習うもんじゃない、と思ってしまってるわけで、結構ですよ、アナタに協力できるようなことはありませんから、お断りしますよ、と。まあ、あまりに熱心すぎて、ちょっと辟易したんで、「悪徳商法みたいですね」と言ったのは、余計な一言だったと反省してます。そしたら、その方も実はブログをお持ちでして、そこにこんなコメントを書いておられた。
「理解しようとする‘真っ白な気持ち’をもっていないと上達の障害になる。」

古い格言、名言に心を奪われそれを糧に練習に励んでいるらしい。理学博士なのに物理学の論理から説明してもいっさい耳をかさなくなった。
このような名言は、本当のスイング(=ボディーターン)を習得した人間だから発言できる物事であって、手打ちのスイングしか知らないゴルファーが聞いても言葉の表面だけを理解するだけになってしまう。
格言をコーチにすることの無意味さを理解してほしい。

(URLは提示しません。本文検索でぐぐれば出てくるかも知れません)
改行は、引用者が適当に変更いたしました。ちなみに、私は工学博士で、理学博士ではないので、もしかしたら、違う人物かも知れませんが、まあ、多分、私のことだろうと思うのです。
正直言えば、メールで頂いた「物理学の論理」ってのが、全然違っていた(少なくとも私が、学校で習った話とは違うように思えた)のもあるんですが。
私は、この方への返答のメールで、夏坂健氏の著作を読むと、面白いことがたくさん書いてある。ゴルフの真髄ってのは、スコアやスイングにあるんじゃないんだな、っていう意味のことが伝えたくて、過去のいわゆるゴルフの賢人の言葉をご紹介したんです。ところが、この方は私が過去の偉人たちの言葉を拠り所にスコアを上げようとしている、とご解釈されている。
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でもね、私はそういうことでもないんです。結局、ゴルフの一番の楽しみってのは、自分で考えて、自分で球を打って、またその結果を考えることなんですよ。幸い、ゴルフというスポーツは、別に他人と競う必要がない。競いたい人はプロでもアマでも競技に出場すればいいけど、競いたくない人は競わなくていい。ただただ、自分と向き合うために球を打つ。そういうゴルフがあっても、私はいいと思うし、私はそれが面白いと思うんですね。
養老孟司先生は、文武両道、という言葉をよく使っておられる。勉強もスポーツも、という世間一般の意味じゃない。文は、脳への入力、武は脳からの指令による出力としての動作。動作の結果が、また文となって脳に入力され、脳がぐるぐる回して、次の武への指令を出す。これが大事なんだろ、っていうのが養老先生の言ってることだと、私は解釈している。となると、ゴルフでまず、風向きだのライだの、ラインだのの情報を入れるところが、文ですよ。で、脳でいろいろ考えて、決断して、スイングして球を打つ。これが武になる。んで、武の結果、新しい状況に球が置かれ、新しい文、入力が発生する。ここに、他人の脳が介在しないんですよ。他人の脳が介在しない、文武の世界って、赤ん坊の世界と同じなんでしょ。だから、ゴルフって面白いんじゃないですかね。ある意味じゃ、赤ん坊のように、自分で起こしたことが自分の周りのすべてのことになる。だからこそ、大人がそこに「帰ってくる」んでしょ、きっと。
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それゆえに、ゴルフではマナーとして、「自分が来たときよりもきれいにしてコースを立ち去れ」という言葉があるんだと思うのですよ。これは、ピーター・ヘイというR&Aのキャプテンを務めた人の言葉。自然は、脳の仕業じゃない。でも、コースに残された爪あと、ディボット跡とかボールマークとか、未ならしのバンカーなんかは、人間の脳の仕業の結果でしょ。それを残さないことは、ゴルフの本質が、赤ん坊の「文武両道」という、人間の行動原理の根本にあるからなんだと思うのです。
そう考えると、軽々に他人に対して、レッスンってできない。実際、1900年代初頭の名選手にはレッスン書なんかなかったわけですし、今でもアイルランドではレッスン書は売れないそうです。アメリカでも、ハーヴィー・ペニック翁の「リトル・レッド・ブック」が100万部売れて、これがレッスン書では最高なんだそうですよ。欧米では、レッスン書はあまり売れなくて、どっちかというと、ゴルフのエスプリ、歴史に関する書物が売れるんだって。ところが、日本ではレッスン書じゃないと売れない。ある意味じゃ、勤勉な国民性を現しているんだろうけど、裏返すとスコア至上主義なんでしょうね。スイング論なんて、スコア至上主義の極みだもの。
レッスンなんて、グリップだけ教えて、あとはタイガーのスイングを何回でも見てくれ、というくらい。スライスに悩んでる人には、フックグリップを薦めたり、クローズスタンスを薦めたりして、とりあえずスライスを防ぐ方法は教えるけど、ものにするかどうかは、本人の努力次第だと、私は思ってます。
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で、実に長くなったんだけど、冒頭の言葉なんです。
ゴルフには、「Play the ball, as it lies」「あるがままにプレーせよ」というのが、原則とされます。で、英文を忠実に訳しちゃうと「置かれたライのまま、ボールをプレーしろ」になるんだけど、一般的な和訳である「あるがままにプレーせよ」というのが、私は好き。
この「あるがまま」ってのは、ボールのライだけじゃなくて、自分自身のことを含めてなんですよ。自分自身は、変化していくものです。ゴルフを10年ぶりに再会した25歳の頃と、それから10年経った35歳の自分。25歳のときは、体重はまだ60kg台だったのが、今じゃ腹囲がメタボゾーンすれすれです。当時は、真っ黒だった髪の毛に、かなり白いものが混じるようになりました。もちろん、筋力にも感受性にも変化はある。その変化すら許容しつつ、あるがままにプレーしていく。若い頃のように、あのときの理想のように、理論や法則が示す理想のように。そういうのは、あるがままじゃないわけです。若い頃とは違う、理想ではない自分を手なずけて、理論や法則だけではカバーできない部分を、自分なりに何とかやりくりしていく。これが、あるがままにプレーする、ということだと、最近になって思うようになりました。
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今の私にとっての「あるがまま」とは、「自分の脳の指令を上手くこなせない体を持った自分」です。この自分が、またたまらなく苛立たしくもあり、またたまらなく愛おしいというか、面白い。だから、ゴルフって止められないんですよ。まあ、別のスポーツだって同じだと思いますけど、ことゴルフって偏執的なところがありますよね。それを私なりに説明しようと思うと、まあ、こういうことなのかなって思います。
で、スコアの亡者ではない、とか言いながら、練習中やプレー日の前夜では、70台はおろか60台でラウンドすることを夢見たりするんですよね。そういう自分がまた面白いんだな、これが。
矛盾に満ちたゲームだからこそ、面白い。本質がわかった、と何回も思えるスポーツなんか、他にありませんからね。その楽しみを奪われるなんて、私は真っ平。だから、今日もシコシコ球を打ち、今日も夜な夜な考えるのです。
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